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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(3)

前話目次

(3)地獄の審問

「次は……草薙くさなぎ君だ、やってみろ」
「はい」

 草薙清暙くさなぎきよはるは、ピアノ専科に入社してまだ二ヶ月にも満たない新人だ。だが、新卒という意味ではない。年齢は二十代半ばで、少し前までは他社で営業をしていた男だ。
 ピアノ専科には、調律学校からの新卒者が入社することはまずない。業界での評判が悪過ぎる為、批判を恐れた全国の調律学校は、ピアノ専科への就職斡旋を自重しているのだ。なので、現在の社員は、全員が中途採用者だった。しかも、杉山のように何らかの不祥事で解雇処分になった者ばかりだ。
 草薙は、調律学校こそ卒業しているものの、技術職には就くことが出来ず、前歴は小さな楽器店での営業マンだった。そこそこ優秀な成績をあげていたが、病的なまでの虚言癖と素行の悪さでトラブルを頻発し、挙句には、お客様から預かったピアノの内金をギャンブルに流用したことがバレて、解雇となった。
 ピアノ専科でさえ採用を躊躇したぐらいの問題児だが、高齢者を相手にさせるだけなら、草薙の虚言が有効に作用することもある、榊はそう考えたようだ。もっとも、駄目ならクビにすればいいだけという逃げ道も用意してあった。
 新人の草薙にとっては、会議での報告はこれが初めてになる筈だが、流石は営業上がりだけのことはあり、実に堂々とした態度で淀みなく報告を行った。設定されたノルマの百五十万円には届かないが、最終的には達成率90%近くまでには伸びるだろう。新人としては、十分に及第点だ。

 しかし、松本は、草薙はすぐにいなくなるだろうと予想していた。自らやめる可能性もあるが、もっと高い確率でクビになるだろうと思っていた。と言うのも、彼のデータに目を通した時に、虚言癖よりもずっと重大な欠陥に気付いたのだ。それは、あまりにも楽天的過ぎることだ。
 草薙が取る仕事は、降水確率が軒並み低くなっていることに松本は気付いていたのだ。しかし、実際のキャンセル率は、他の営業と大差はない。これはつまり、見込みが甘いのだ。いや、楽観し過ぎなのか……詰めが甘いとも言える。

 ピアノ専科では、必ず降水確率を提示するように義務付けられている。その数値によりポイントが付加され、手当てが増減するのだ。
 勿論、降水確率の低い方がポイントも沢山付くのだが、キャンセルになった場合は失効するポイントも多くなる。これは、リスク予測によるトラブル回避の為に構築したシステムであり、客観的に見ても上手く機能していたと言えるだろう。
 実際に降水確率を低く見積もっていた客にキャンセルされると、心理的な負担はもちろんのこと、運送や倉庫の手配、工房の確保、部品の仕入れなど、様々な弊害が発生することもある。なので、キャンセルの恐れを感じたら、手当てが減ろうが高めの数値を付けておくに越したことはない。そうすると、部品の発注を遅らせたり、運送の手配にゆとりを持たせたり、全スタッフがそのつもりで対応出来るので、本当にキャンセルになっても大きな痛手にはならないのだ。80%以上なら、実施されてもポイントは付かないが、キャンセルになった時の失効ポイントも0となっている。
 逆に、契約履行の手応えを感じたら、低く設定すれば良い。降水確率が低いほど、施工されると沢山のポイントが付与され、手当として換金されるのだ。勿論、その分キャンセルの場合の失効ポイントも大きくなるのだが、詐欺業者にとっては、なかなか理にかなったシステムだろう。

 また、このシステムの最大の利点は——それが目的でもあるのだが——降水確率を下げる為の営業努力に繋がることなのだ。その結果、担当者にとってはポイント増加や成績アップにも繋がるし、会社にとっても売上の増加に反映される。
 松本は、草薙がどんな仕事も20%以下に設定していることが気になっていた。どう考えても、楽天的過ぎるとしか思えない。ネガティヴな思考は少ない方が良いのかもしれないが、草薙のように全くないのも考えものだ。
 そう、リスク回避の努力以前に、草薙にはリスクの想定が出来ないのだろう。いや、もしかするとギャンブル好きの彼のことだから、大量のポイントを得ることしか頭にないのかもしれない。
 法的にも道義的にもファールゾーンで営業をしているピアノ専科にとって、慎重さの欠如した人間は、必ず大きなトラブルを引き起こすだろう。一か八かの賭けなんて必要ない。詐欺師は、綿密さと慎重さが重要だ。
 榊が、そこに気付かない筈はない。なので、松本は、時間の問題で草薙は解雇されるだろうと予測していた。

 その後、もう一人から報告があった。木村直紀という六十代半ばのベテランで、黎明期のピアノ専科を榊の片腕として支え、詐欺的な手法の殆どを考案した人物だ。
 木村は、工房での作業も行っており、榊からの信頼も厚い為、ノルマも特に課せられていない。それでも、柔らかい人当たりと目尻の下がった優しい顔付きは、相手に信頼と安心感を与えるようで、営業ヽヽとしても有能だった。毎月コンスタントに二百万円前後の売上げをキープしており、降水確率も大きく外すことはない。今月も、可もなく不可もない形式的な報告に終始した。

「じゃあ、次は松本だ」

 いよいよ地獄の審問の時間が始まるようだ。松本は、せめてもの抵抗で、情けない数字を恥じる素振りを押し殺し、正々堂々と読み上げた。

「A難度十二件、全て実施済み。B難度は三件実施。現在見込みが一件ありますが、降水確率は80%、明日返事を貰うことになっています。C難度は、現在一件進行中、木曜日に納品です。見込みは一件、降水確率は40%です。現在、返事待ちですが、今週中にはこちらからも確認の電話を入れてみます。D難度は無し。現時点での見込みもなし。以上です」

 それだけを一気に報告した。簡潔にまとめたのではなく、実績そのものが簡潔なのだ。
 このままだと、月間総売上げは、ノルマの三百万円どころか新人ノルマの百五十万円に届くかどうかだろう。一番の高級取りなのに、今月の売上げは最下位に堕ちる可能性もある。達成率も、このままだと50%を割込む絶望的な数値だ。
 松本の報告に、榊は意外と冷静に耳を傾けていた。その分、より一層の恐怖心が湧き上がる。滅多に怒らない人間が怒る時と同じぐらい、直ぐに怒る人が怒らない時も不気味だ。報告が終わっても、榊は微動だにせず、無表情のまま黙り込んだ。

「お前さ、ノルマ割れ何ヶ月続いてんだ?」
 ようやく榊は口を開いた。その表情からは相変わらず感情が読み取れないが、決して穏やかではないだろう。
「申し訳ございません。先月で四ヶ月連続でした」
「そうか……松本のノルマは、かなり厳しい数値なのは分かってる。それと、何年にも渡る功績も理解している。ただな、杉山がここのところ、コンスタントに三百前後取ってるのに、お前はこの数ヶ月、二百にも届いてないだろ?」
 榊の淡々とした口調は、優しくすら思える程だ。松本は、恐縮するしかない。
「本当に面目無く思っております」

「面目ないじゃねぇだろっ!」
 突然、榊は怒鳴り出した。抑え込まれていたマグマが内圧に耐え切れず噴出するかのように、榊は溜め込んだ怒りの感情を一気に爆発させた。いきなりの豹変とその迫力に、新人はもちろん、ベテランの木村ですら畏縮したかのように黙り込む。
「お前、ざけんじゃねぇぞ! いつまでノルマ割れ続けるつもりだ? 謝って済むわけねぇんだよ! 今月中に、C難度二件、若しくはD難度一件取って来い。それが出来たところで、お前、今月もノルマ割れだろ? もし出来ないなら、来月からノルマを新人並に下げてやるわ。給料も新人クラスから出直しだ。それと、結果に関係なく、松本は向こう三ヶ月、ポイント手当て無しだ。分かったか?」
 最後には、榊は冷静さを取り戻していた。これは、最終通告だろう。松本にもそれぐらいは理解出来た。
 松本には、どうしてもピアノ専科を辞めるわけにはいかない事情があった。とりあえず、生き延びたようだが、退路を塞がれたプレッシャーも大きい。安堵と重圧が混じり合い、返事をするだけで精一杯だった。

「寛大な処置に感謝します。今日から気合いを入れ直し、一件でも多く取るように努力し、少しでも恩返し出来るよう頑張ります」
「そんな言葉は要らん! 営業マンは、客には言葉を使え。俺には結果で語ればいい」
 そう告げる榊の眼光は、獲物を狙う肉食動物のような鋭い光を放ち、情の通じない性格を反映していた。鮫の目にも似た、この容赦のない冷酷さこそ、榊の本性を一番表している。
 萎縮するの松本の横で、恐怖心に苛まれ身動き出来なくなった新人がいた。おそらく、榊の本当の怖さを初めて目の当たりにしたのだろう。その隣では、何事にも動じない杉山が、ほんの少し口元に笑みを浮かべていた。

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