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子どもの頃のお稽古の話 その3

最終回は、ピアノの話です。3年生までは、「子供は遊ばせるべき」との先生の方針通り、遊んでばかりいたのですが、さすがに母も「このままでいいのだろうか」と心配になったようです。大阪音大の教室ではピアノの実技試験もあり、その結果を見て、もう少しきちんと習わせてみようかと、先生探しを始めたようでした。

先生探し、といっても、当時はインターネットなどありませんので、母が大阪の中之島図書館に行って、「音楽年鑑」という分厚い本から、目ぼしい先生のお名前と電話番号(!)を控えてきました。そして、母が先生方にお電話して、今でいう体験レッスンみたいな形で見ていただくことに。よそ行きの服を着て、何人かのお偉い先生方のお宅へ伺い、ピアノを聴いていただいたことを覚えています。大体ご年配の女性の先生でしたが、前の人のレッスンを聴いていて、あまりに怖くて緊張したのを覚えています。当時はそんな怖い先生も多かったのですね。その中の一人の先生が、私が弾いた後で「この子は東京芸大も夢ではないわね」と仰ったのを覚えています。当時は、東京芸大なんて雲の上の人達が行くところ、と思っていましたので、信じられないねと家族で驚いたのでした。

それでも、なかなかピンとくる先生がいなかったのですが、地域でちょっと大御所的な、大きなコンクールの審査員をされている先生が、良さそう、という話になりました。ただ、その先生はとてもお忙しかったようで、「今、弟子で桐朋学園大学からアメリカに留学し、帰国したばかりの人がいるから、その人に見てもらったら?」と薦められて、結局その先生に習うことに。それが、畑彰子(はたあきこ)先生です。

畑先生は、教え始めて間もない時期ということもあり、熱心にみてくださいました。そして何よりも、私にはいいものがあると仰って、自由に弾かせてくださり、よく誉めてくださいました。ただ、ピアノの奏法的にはずいぶん直されましたが、数年かかってついた癖はなかなか取れません。毎日毎日ピアノに向かいながら、うまくいかずに苦労したのを覚えています。最初からこの先生に習えていれば・・・と何度思ったか分かりません。

先生は、コンクールにも挑戦してみましょう、と仰って、先生がバルトークの孫弟子だったこともあり、バルトークの曲で受けてみましたが、落選。初めてのコンクールで緊張してうまく弾けなかったこともあり、私は結果にとてもショックを受けたようです。母が帰りにお店で大好きなパフェを食べさせて元気づけようとしたのですが、「いらない」と泣きながら一口も食べなくて、困ったらしいです。私はすっかり忘れていますが・・・(笑)。

昨年に引き続き、今年も秋にリサイタルをする「宝塚ベガ・ホール」のある「清荒神駅」。その一つ隣の「売布(めふ)神社駅」に、畑先生は住んでいらっしゃいました。ですから、高校3年生までの8年間、箕面の桜井駅から毎週通ったことになります。そして、毎年の発表会も「宝塚ベガ・ホール」で行われていました。ですので、このホールは私のホームグラウンドのような場所です♪ 昔からコンクールは苦手でしたが、発表会は好きでした。発表会では、私が好きなように弾けば弾くほど、先生は誉めてくださいました。悲しいことに、先生は若くして病気で亡くなられてしまったのですが、このホールで弾く時は、天国から見守ってくださっているような気がしています。今年の秋も、先生に聴いていただけたらいいな~。

以上が、私の子ども時代のお話でした。お稽古事、とくに楽器は基本のフォームが大事ですので、正直に言えば、一番最初の教室探しをもっと慎重にしてもらいたかった、という思いはありますが、音楽の世界を何も知らない両親が、私の様子を見ながら試行錯誤して、いろいろ勉強をさせてくれたことに感謝しています。畑先生は、高校から東京に行くように勧められましたが、結局地元の普通高校に進んで、音楽の道の最短コースは辿りませんでした。ですが、その結果、いろいろと素敵なご縁に恵まれましたので、これでよかったのではかなと、今では思っています♪

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