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普通の生活とは何なのか

前書き

 これは一個人の日記です。病気に関する話を綴っていますが、私はあくまで患者であり、医師や専門家ではないため、用語の使い方などに不正確な点があるかもしれません。ここに書かれたことを鵜呑みにせず、不安なことや疑問に思う点があれば専門医に相談してください。
 また、定期的に読み返しながら誤字脱字や表現が適切でないと判断した部分については随時修正していきますのでご了承ください。
 本記事は自身の実体験の他、主治医から直接聞いたことや専門のサイトを参考に書いています。参考文献のリンクを最後に記載しているので、そちらもぜひご覧ください。

 また、同じ病気を持つ他の患者さんに、私の書いた経験談が全て当てはまるとは限りません。状況は一人一人違います。どうか押し付けや思い込みでまわりの患者さんを傷つけることは絶対にやめてください。
 重ね重ねになりますが、あくまで私という個人の日記です。ご理解いただいた上でお読みください。

 最後にもうひとつ。私は今まで、自分が病気であることはツイッターで何度も話してきましたが、詳しい病名はずっと伏せていました。身バレが怖いとか、偏見が怖いとか、その他様々な理由によってです。
 しかし、同じ病とともに生きる人の救いになりたい。社会に病気のことを認知してほしい。生きづらさを抱える日々で、そういった思いが少しずつ強くなっていき、今回初めて詳細を明かすことを決めました。かなり勇気を振り絞って書いています。

 もう一度言います。勇気を振り絞って書いています。

 とても長いです。
 それではごゆっくりどうぞ。


日常が日常じゃない話

 数日前のことである。夜中にふと目が覚めると、冷や汗をぐっしょりかいていた。体に力が入らない。舌がじりじりとしびれ、意識は朦朧としている。

 ヤバい、急げ。

 枕元に常備している固形のブドウ糖を口に放り込む。200ml紙パックのジュースをつかみ、慌ててストローを挿すが上手く飲めない。うまく引っ張りきれなかったのか、途中でストローがカクッと縮んだ感覚がした。これじゃ底の方に中身が残ってしまう。焦りながら震える手で格闘する。
 どうやったのか覚えていないが、気が付いたら最後まで飲み干していた。空っぽになった容器を置いて、ハア、ハアと深く息をする。
 正常な状態に戻るまで最低15分かかるので、しばらくボーっと待つ。
 腕に貼りつけたセンサーに専用の器械をかざすと「LO」の文字。うーん、またか。

 なかなか戻らないので、追加でチョコレートを夢中で口に押し込んでみる。いくつ食べたか覚えていないけど、あとでゴミ袋を覗いたら、丸めた包み紙の塊が大きすぎてびびった。7、8個は食べたらしい。

 翌朝、かすかな吐き気とともに目覚める。かざした器械には「190」とあった。やっぱりチョコレートが多過ぎたな。でも、あんだけ食ってこの数値なのか、と逆に怖くもなる。
 仕事に行かなくちゃ。起き上がると体がだるい。母にゆうべのことを話すと、仕事行けるの?遅れて行ったら?と心配されたが、明日から連休をもらっており、一緒に働く従業員さんにはシフトを入れ替えてもらっている。その手前、遅刻も早引けもしづらい。それに、全く動けないわけじゃないし。いつも通りに家を出た。

 結局、その日は早引けどころか20分の残業となった。前日が忙しかったので仕事がたまっていたのもあるし、何より自分が思っているほど体が動かなかったのだ。しかたがない。
 それに、仕事中にも軽く発作を起こしていた。ここでいう「発作」とは、つまり「低血糖」のことである。

 ざっくり説明すると、血液中のブドウ糖が減りすぎてヤバい状態のことである。「ただちに補食(=糖分を摂る処置)をして15分ほど安静にする必要があり、回復すれば作業に戻れる。そのまま放置すると意識を失って倒れるかもしれない」という状態のことを指す。
 この発作は日常的に起こる。たぶん、他の患者さんと比べても私の発作は頻回だと思う。

 早退したくなかったので、休憩を挟んで様子を見た。発作が起きたら一時的に作業を離れなくてはいけないため、上司に内線することにしている。
 「遠慮せずきちんと言ってくださいね」と言われているものの、回数が異常なので馬鹿正直に報告するとほぼ毎日内線することになってしまう。「またか……」と思われるのが嫌で、報告せずにひっそり補食してひっそり作業に戻る日も少なくない。

 実際には直接言われたことのない「迷惑」という二文字が、頭の中にいる架空の誰かにずっとささやかれている。
 それがいつか現実になるのを恐れて、平気なふりをして無理をする。動ける限りは、精一杯どうにか普通のふりをする。

 これが日常である。

 仕事を乗り切り、帰りのバスの中では眠くてウトウトしていた。
 帰宅してとりあえずセンサーをチェックする。数値は66。もうわかる人にはわかると思うが、この数値とは血糖値のことである。

 正常値は100前後なので66は低すぎる。ちなみに70以下になると処置が必要で、60未満になるとヤバい。50未満でめっちゃヤバい。処置が遅れると意識を失って痙攣を起こす。
 たいていは70ぐらいになると自覚症状としてさまざまな交感神経症状が最初に現れるが、頻繁に低血糖を繰り返す人は「無自覚性低血糖」といって中枢神経症状が出るまで気づけないことがある。私は中学生のときにはすでに当時の主治医からその傾向があると言われていた。
 過去に何度か意識を失って救急外来にお世話になったが、「目覚めたら病院のベッドの上で点滴の管に繋がれていた」という現象は本当にあるんだなーと妙に冷静になった記憶がある。隣で父が自分より青ざめた顔で見守っているのを見て申し訳なくなったけれど……。

 実は眠気や生あくびというのが低血糖の症状としてよく現れる。バスの中で眠かったのはそのせいだったらしい。
 急いで遅めの昼ご飯を食べる。私は体調がこんな状態なので、半日しか働いていない。繁忙期だけフルタイムで出るけれど、基本はこの状態だ。いつかはちゃんと経済的に自立できるだけの稼ぎを得て、家族にもできるだけ迷惑をかけずに生活したいと思っている。まあ現実はなかなか難しいのだが。

 ここまで低血糖の話を中心にしてきたが、高血糖にも当然リスクがある。
 高血糖が続くとHbA1cの値が上がる。これは直近1~2か月の血糖の平均を示すもので、6.5%を超えると糖尿病が強く疑われる。(詳細は専門医へ)
 長期間に渡ってHbA1cの高い状態が続くと、神経障害や網膜症などの慢性合併症を引き起こすことがある。これらの合併症を予防することが糖尿病治療の大きな目的だ。
 また、極端な高血糖は糖尿病ケトアシドーシスや高浸透圧高血糖症候群といった急性合併症のおそれがあり、特にこれらは迅速に対応しなければ命に関わるため注意が必要である。


1型糖尿病の話

 「1型糖尿病」という病名を聞いたことはあるだろうか。
 あるいは、身近に患者さんがいるだろうか。
 はたまた、これを読んでいるあなた自身が患者さんという可能性もあるだろうか。
 「糖尿病」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、太った成人が甘いものばかり食べてぐうたらしている様子かもしれないが、それは偏見である。実際はそればかりではない。

 まず、糖尿病には大きく分けて「1型糖尿病」「2型糖尿病」「その他の特定の機序・疾患によるもの」「妊娠糖尿病」の4種類がある。糖尿病に複数の種類があることさえきちんと知らない人も多いのではないだろうか。
 一般的に、単に「糖尿病」と呼ばれる場合はほとんとが「2型糖尿病」のことを指しており、周知のとおり生活習慣の乱れが要因で発症することがある。しかし、必ずしも食べ過ぎや運動不足だけではなく、実際は遺伝因子やストレスなど様々な原因が絡むため、一概に「生活習慣のせい」とは言い切れない。(むしろ「生活習慣病」という呼び方や考え方は不適切である、という認識が年々強まっている)
 同じ糖尿病である私自身も、かつては「2型の人と一緒にされたくない」という気持ちがあった。とても申し訳なく思う。学校の先生に「甘いものたくさん食べたの?」と聞かれて嫌な思いをしたこともある。
 患者同士、ときには医療関係者でさえも、未だに糖尿病に対する誤った認識や無知からくる差別や偏見=スティグマは根強い。当事者でなければなおのことである。それらを少しでもなくしていくためには、病気に対する世間のイメージをアップデートしなければいけない。アップデートするためには、正しい知識を広めていかなければならない。いち患者としてできることを考えつづけたいと思う。

 私は小学生のときに1型糖尿病を発症し、治療を続けて約15年になる。正確な患者数は把握できないそうだが、糖尿病の約9割を占めると言われる2型糖尿病と比較すると圧倒的に少ない割合だ。
 1型糖尿病は「自己免疫疾患」といって自分自身の細胞を誤って攻撃してしまう病気である。何らかの原因で膵臓にあるランゲルハンス島のβ細胞が壊されることにより、血糖値を下げるインスリンというホルモンがほとんど分泌されない、あるいは枯渇することで発症する。はっきりとした原因はまだ解明されていない。

 患者にはインスリンの投与が必須となり、注射器やインスリンポンプを使って継続的に治療を行っていく。毎食前や就寝前など1日に最低4回以上の血糖自己測定を行い、血糖コントロール(※2023年追記、現在は「血糖管理」という呼び方に変わりつつあるようです)につとめる。完治する方法は今のところ見つかっていないため、死ぬまでの長いお付き合いである。
 私は10年ほど注射器を使用していたが、夜間の低血糖による意識障害を複数回起こしたことから、より緻密なコントロールが期待できるポンプの使用に切り替えた。
 ポンプを使いはじめてからは意識を失うことはほとんどなくなった。一度だけあったけれど、その時は①ひどく疲れがたまっていた②食事がとれなかった③日中の運動量が多かった、という悪い条件がたまたま重なっていたので、あれは自分の管理がよくなかったのだと思う。
 注射器にしろポンプにしろ、最終的には自己管理が重要なのである。厳しい世界。

 注射器からポンプへ切り替えるとき、導入(勉強)のために4日間の入院をしたが、そのポンプが病院に導入されたばかりだったので詳しい人がおらず、看護師さんも私もテンパって、なんだかよく分からないまま退院した。退院日が大学の入学式の2日前だったので大いなる不安を残したまま帰ることになり、精神的に死んで病院でも家でも泣いていた。
 泣いているのを看護師に見られたことがある。どうしたの?大丈夫?と聞かれ、「花粉症です」という見え透いた嘘をついたのは本当に恥ずかしくて忘れたい。
 大学は2年生の途中でやめた。1型糖尿病が直接の原因ではないし、いろんな理由があったけれど、治療がつらすぎて鬱っぽくなっていたのは間違いなく一因としてある。

 話を戻す。とても雑に説明すると、インスリンを打てば血糖値は下がり、食事を摂れば血糖値は上がる、という一見とてもシンプルな話なのだが、これがひどく難しいのだ。
 よく考えてほしい。正常な体内では、血糖の濃度は勝手にうまいことコントロールされている。それを患者は自分で考えてコントロールしなければいけない。おおまかな目安や計算式はあるものの、この量の食事に対してこの量のインスリンを打てば必ずうまくいくという万能な方程式はない。
 まず体質や一日の運動量などによって一人一人必要なインスリンの投与量は違うし、その日の体調、運動量、ストレス、月経なども関係してくる。成長期の10代もまたコントロールは難しくなる。そう簡単に正常値を保てるものではないのだ。人生のデフォルトが超ハードモードなのである。

 また、経済的な負担も大きい。現在は2か月に1回のペースで糖尿病内科と眼科(合併症予防のため定期的な眼底検査と眼圧を下げる目薬が必要)に通っているが、内科の診察代と2か月分の消耗品・薬代はあわせて3万3,000~3万4,000円前後。眼科は5,000円程度。1か月あたり2万円弱の医療費がかかる計算だ。
 現在、治療費が補助されるのは18歳未満で発症した患者で、助成を受けられるのは20歳未満までである。
 さらに通院のための交通費も加わるが、バス代往復数百円とはいえ地味に痛い出費である。半日勤務のパートタイマーで月の平均収入が10万円もない自分にとって結構な負担だ。今は実家暮らしで生活費の一部は出しているものの、その多くを親に頼り切っている。情けないけれどこれが現状。

 そして意外とつらいのが、見た目で分からないことだ。口に出さない限り病気だとは判断できないだろう。これだけハードな生活をしているのに。
 しかも、「体調が悪いときにはただちに甘いものを摂取する」という、状況を知らない人からすれば意味の分からない行動を、職場や学校などでも行う必要がある。低血糖のことを知らなければ、糖尿病なのに甘いものを食べるの?と思う人だっているだろう。
 だからといって過剰にアピールするものでもないし、どこまで人に説明するべきかはいつも悩む。小中学生のときはクラス替えの度にみんなの前で話したけれど、理解している子なんて半分もいなかったのではなかろうか。何より、自分自身がよく分かっていなかったし。(未だにそうである)

 人と関わるうえで、持病があることを知っておいてもらうに越したことはない。だが当然、話せば理解が得られるとは限らないし、かえって傷つくことも往々にしてある。
 同じ職場にいくつかの持病を抱えている方がいる。その人は頑張って治療しているけれど、どうしても体調不良で欠勤が多い。まわりの人が「迷惑とか考えないのかな?」「辞めたらいいのにね」と陰で話すのを聞いてしまい、私はゾッとした。悲しかった。病人が働く権利はないのか。迷惑をかける存在でしかないのか。口先では「遠慮しないでね」とニコニコ話す人たちを信用できなくなった。

 私の中では病気なんて自分という存在の一部に過ぎなくて、たとえば背が低いとか髪の毛が黒いとか音楽が好きとか、そういった自分という人間を構成する数ある要素のひとつでしかない。生活が大変なのは事実だけど、病気が人生の全てというわけではないからだ。今まであった出来事のどれも皆、病気のおかげでも病気のせいでもない。そう思いたい。

 だが、自分の一部であるということは、同時に全ての出来事が病気と関係してくるともいえる。先述したことと相反するように聞こえるが、これらは表裏一体である。このあたりの解釈は本当に難しくて未だに答えが見つけられないし、ずっと考え続けていくのだと思う。

 「病気の人」として扱われるのには想像以上の苦労があるが、同じように、打ち明けられた側の人もまたすごく戸惑うのだろう。接し方に悩んだり、目の前で突然倒れたらどうしようと不安になったり、どこまで配慮すべきか線引きに困ったり……。
 患者である自分以上に、まわりの人のほうがよっぽど苦労しているのではないか?と思うこともある。いつだって人の支えなしには生きられない。申し訳なさと感謝の思いは常に1:1で小さな器から溢れかえっている。

 もうひとつ、つらいことがある。しんどい割にはそれなりに普通っぽく生活できてしまうことだ。
 え、いいことじゃないの?と思うだろう。「ちゃんと治療していれば普通の生活が送れるよ」という言葉は、多くの1型糖尿病患者が医師や看護師から聞かされるお決まりのものだ。
 しかし、これもよく考えてほしい。
 ちゃんと治療していれば=「毎日数回の注射もしくは常時インスリンポンプの装着を行い、その日の体調や運動・食事を考慮して都度適切なインスリン投与量を見極め、低血糖や高血糖、合併症の予防につとめながら、発作が起きたときには適切に対処し、アホみたいに高い治療費を工面して、長期に渡る治療と根気強く向き合うメンタルを保っていれば」である。これをクリアしてようやく「普通」なのだ。字面だけでへとへとになりそうだ。
 頑張って、頑張って、頑張って、やっとマイナスからゼロになる。少なくとも私にとってはそういう病気なのである。


「普通」の話

 治療の難しさ、社会的支援の不足、心身ともに削られる生活。ここまで書いてきた今、我ながらよく頑張って生きているなぁ……という気持ちが湧いている。でも、普段はなかなか心からそうとは思えない。
 自分は元々、いわゆる根暗で引っ込み思案。意志薄弱で逃げ腰なクズ人間である。大学生活が続かなかったのも、正社員あるいはフルタイムの仕事に就けなかったのも、病気がどうこうという前に人間として欠けているものがありすぎたせいだと思っている。
 だからなおさら、治療は頑張って当然、苦しくても文句を言うもんじゃない、ただでさえクズなんだから余計な迷惑をかけてはいけない、とどこかでブレーキを踏みながら生きている。

 インスリンポンプの導入で入院したと書いたが、その退院日に看護師から言われた言葉がある。

「あなたが病気になったことは誰のせいでもない。だけど頑張らなくちゃいけないの。」

 話を聞いているあいだはぐっとこらえていたが、看護師が去ったあとでボロボロに泣いた。
 その通り、正論だ。何も返す言葉はない。でも、それがつらいのだ。すごく、すごくつらいんです。
 言ったところで治るわけでも助けてもらえるわけでもない、弱音なんか聞きたくないだろう。だけどたまには吐かせてほしい。

 あなたと私のまわりには、病気や障害とともに生きている人がいる。その人は普段、どんな風に過ごしているだろうか。普通に生活しているように見えるだろうか。

 「薬を飲んでいれば普通の生活を送れる」
 「病気でも普通に仕事ができる」

 その「普通」って、何ですか?
 やっとの思いでマイナスからゼロになって、健常者と同じラインに立つまでにさまざまな苦労を抱えて生きている。それが果たして「普通」と言えるだろうか。そもそも、「普通」を目指さなくちゃいけないのだろうか。
 もちろん健常者には健常者の苦労があるのだろう。でも、それは病気を抱える人が支援を受けられない理由にはならない。なってはいけないのだ。

 難しいことは分からない。ただ、あなたの近くにいる人が、普通に見えるあの人が、見えない病気を抱えているかもしれないこと。陰では苦しい生活を強いられているかもしれないこと。それを想像すること。当事者が声をあげやすい環境をつくること。
 これを読んでくれたあなた。他でもないあなたが、どうか動いてください。
 「誰もが生きやすくて寛容な社会」なんてきれいごとだろうか。願わくば、そういう世の中が「普通」であってほしいのだ。

 私は今日も普通になれないまま、それでもここに存在している。


参考文献(ホームページ)

・国立研究開発法人 国立国際医療研究センター糖尿病情報センター

※サイト内にリンク集があります。

・一般社団法人 日本内分泌学会


追記(2022/11/14)

 こちらもぜひ。

追記2(2023/8/31)

 「1型糖尿病とわたし」というマガジンをつくりました。こちらもぜひ。


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