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瓦礫に花を咲かせましょう〜後悔の山に金字塔を建てる〜


#最近の学び

自分の読みたいものを書く!
自分が読みたいのは「自分を勇気づける本」だ。
”成功”とは周囲の思うものではなく、自分で決めるものだ。そういう内容の本が読みたい。
成功、という言葉の認識がちょっと違うのかも知れない。
私が言っているのは”成長”かもしれない。

ティモンディは「やれば、出来る!」と言っているが、私はそれは正確ではないと思う。
正確には「や(り続け)れば、(以前よりも)出来る!」だと思う。
自分が以前よりもマシになっていれば、もしくはゼロをイチに出来ていれば、それは成長だし成功だと思う。

成功というと、周囲に認められないといけないもののように勘違いしてしまう。
もしかしたらそういうものが成功なのかもしれないが、私は他人に自身の成功の決定権を握ってほしくない。「お前は年収が1,000万円だから成功者」「お前は働いてないからクズニート」とか、他人が好き勝手にほざいている言葉に右往左往することになるのは時間の無駄じゃないだろうか(「ニート」は事実かもしれないが「クズ」ではないだろう)。

自分の成功を、誰々さんが言ってた成功としてしまうと、果たしてそれは本当にあなたの(自分の)成功なのだろうか?それって結局誰々さんが考える成功「止まり」ではないだろうか。
自分は誰々さんのちっぽけな成功で収まるだろうか?あるいは誰々さんの成功は自分の身の丈よりずっと大きいかもしれない。そうしたら無駄に絶望する羽目になる。他人のふんどしは小さくても大きくても自分には合わない。あとなんか汚そう。自分のふんどしはピッタリのものを清潔に保ちながら履き続けよう(何の話だ?)

私が、今の自分より少しでもマシになっていれば、それは成功だと思う。夢を描く必要なんてない。夢の中に入り込んでいるほうがよっぽど楽しい。夢をみる、というが、寝ているときのあれは、夢の中にいるのではないだろうか。なんでちょっと客観的な表現がされるのか。目が覚めるからだろうか。覚めない夢は現実だ。

成功したいなら、「成功」のイメージを捨てないといけない。成功者はこういう人、というゴール設定が不幸の始まりだ。
だって、そしたらスタートは「非・成功者」に決まっているじゃないか。自分からなんで成功者じゃないっていう辛いレッテルを貼るのだろう。

社会には「成功」を煽るものが溢れている。しかし、それで絶対に成功者になれるのかというとそうではない。「この株を買えば成功します!」「このツボを買えば成功します!」そんな言葉に騙されない、と思うかもしれないが、「それで成功するわけない」という思考だったらそれは社会に騙されている。そもそも、成功なんて無いのだから。

成功というのは突き詰めれば自己満足でしかない。そこに社会が作り上げたステータスが乗っかってくるだけである。「自分が満足するために何が必要なのかを、社会に代わりに考えてもらう」というのがいまの世の中だが、成功にしがみつく人や成功者を目指す人は、目に見えないキラキラを追いかけている。幸せの青い鳥を探しているようなものだ。

もちろん、追いかけるのが楽しいのなら、文句をつけるのは余計なお世話だろう。
だが、私のとってその成功は無味無臭なのだ。
自分と繋がっていない。無い物ねだりじゃないだろうか。

百歩譲って、その成功に辿り着く人がいたとして、そこに苦痛をともなったなら、やっぱり私だったらやらない。
商品に値段の書いていない自動販売機に、連コインする必要が、本当にあるのか。
そこまで追い込まれる前に、もっと安心安全な自動販売機を探そうと、どうして思わないのか。

もうすでに私達は成功しているし、夢の中にいる。社会で言われる成功は、成功者とそれ以外という幻想を作り出している。課金ゲームの新キャラみたいなものである。それをもっていないやつは雑魚、みたいなノリである。

人は誰かにはなれないのである。どこまでいっても自分なのである。
スヌーピーが言うように、もっているカードで勝負をするしか無い。

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