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カレーで曼荼羅を作って、すぐに跡形もなく消し去ろうと思った:カレー哲学の視点(12/26〜1/1)

2021年の年末、巨大なカレー曼荼羅を作ることにした。

チベット仏教の砂曼荼羅

チベット仏教に、完成したのちすぐに壊される砂曼荼羅というものがある。
修行の一環として、色とりどりの砂を少しずつ丁寧に落とし、気の遠くなるような長い時間をかけてカラフルな曼荼羅を作っていく。曼荼羅は悟りの境地に達した人の観た風景を形にしたものと言われる。

こうやって砂粒を落としながら細かい作業を延々とひたすら続けていく。最終的に曼荼羅が出来上がったら祈りが捧げられ、すぐに高僧によって壊され、川に流されてしまう。砂は海へと運ばれ、祈りはばらまかれる。

2021年は、生きていることは「向き合うこと」そのものなのだと思うことが多かった。

砂を一粒一粒落とすような丁寧な生活ではないけれど、やらないと終わらないことがわかっていることをひとつずつやっていく。もう生きることに飽きていたとしても、ただやっていく。自分の嫌なところを見せつけられても、日々向き合ってやっていくしかない。だけどそうやって積み重ねてきた美しい砂のようなものが自分の思い通りにならないものにサッと奪われて、水に流されてしまうようなこともたくさんあった。

苦労して積み上げた美しいもの、多大なコストを費やしたものも、なくなるときには一瞬で消えてなくなる。諸行無常である。出来上がったもの、既に手に入れたものに執着しても意味がなくって、作り上げる過程こそが修行か。

だから、カレーで曼荼羅を作って、すぐに跡形もなく消し去ろうと思った。

全体が部分で部分が全体

またインドに行けるように願いを込めて、曼荼羅を作る。そう決まってからは早かった。

8名の作り手に声をかけ、それぞれにターリーを作ってもらうことにした。普段、協力して一皿を作り上げることはあるが個人でターリーを全て作ってもらうということはなかなかない。

ターリーの一つ一つが宇宙であり既に全体なのであるが、そういう全体が寄せ集まってまた新たな全体を作る。カレーというのはどこまでもフラクタル構造をしていて、近寄ってもカレーであり、遠ざかってもカレーなのである。

年末の二日間を利用して、一日に4人ずつがターリーを作っていった。それぞれがそれぞれの個性を持って宇宙を作り上げる。

2日間かけて全8人のターリーが出揃った。

大晦日の23時、机の上に円く広げられたバナナリーフに次々とカレーを盛り付けていく。その場にいる人々が一丸となってカレーで曼荼羅を作り上げていく熱狂は、自分で企画したのに、眺めていてもどこか現実感がなかった。背景ではいただき物のブッダマシーンが常に念仏をあげている。

日付が変わる直前に曼荼羅は完成し、新年を迎えてまもなく跡形もなく食べられてなくなった。

カレーというのは瞬間芸術であって、完成されたそばから食べられてなくなる。いや、できあがった時点が完成なのではなく、食べられることが完成なのかもしれないし、食べられて消化されてもまだ完成しているわけではないのかもしれない。

エネルギーを計画的に無意味なものに変えて、作り上げたものを一瞬で消し去る。実体のつかめないカレーを今年も追い求めて、危険な道をいく。なんとも不思議な年末の体験だった。

メイキング映像はこちら。


新年のご挨拶

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
今年もカレーで狂っていきますので、よろしくお願いいたします。
やらないと決めたことをちゃんとやらないというのが今年の目標です。

ターメリックの色素をアルコールで抽出し、酢酸で黄色、炭酸水素ナトリウムで赤色にしたもので書き初めもしました。時間が経ったら早速褪色してたけれども。

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