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亀戸タミルナードゥキッチンで会いましょう:カレー哲学の視点

カレーという概念について考えるとき、僕はいつも東京という都市のことを考える。カレーという概念は遠くから眺めているだけでは漠然としていて、「カレー」と呼ぶしかない代物である。

雑なアナロジーだが、同様に「東京」という街も恐ろしく漠然としている。東京ディズニーランドは実際には千葉にあるし、東京はもはや概念となり物理的なものを飛び越えているのだろう。

かつて長野の山奥に住んでいた時、「東京」も「カレー」も遠くから眺めるしかない、ぼんやりとしたものだった。しかし実際に東京に住んでみてから東京の解像度が上がり、「東京」という呼称はむしろ内部に生まれ育った人たちにとってはあまり意味をなさないことがわかった。

同様に自分がカレーという概念の内部に暮らすようになり、その中ではカレーという言葉は意味をなさないことを知った。言うまでもなく周りはすべてカレーだからだ。普段空気に包まれて生きているから特段空気のことを意識しないのと同じだ。

カレーが先にあるのではなくて、カレーと名づけるからカレーがうまれるのだ、というのはソシュールというスイスの言語学者が言っていたことでもある。はじめからカレーがあるのではなくて、対象にある名前をつけることでそのカレーはカレーになるのだ。虹の色の数が国や言語によって違ったり、フランス語では蛾と蝶の区別がないというのは有名な話だろう。

カレーの概念は名前をつけることで分節化し、実体を持って扱われるようになるし、その人の経験や知識によって区別の仕方が変わる。

なんでこんなことを書き始めたんだっけ。亀戸のタミル・ナードゥキッチンに数人で行ったのだが、久しぶりに会う人が複数人いて、近況報告をしあうプチ同窓会のような状態になっていたからだ。それぞれが異なる分節をしたカレーの概念を持っていて、しかもそれが時系列で変化している様が感じ取れて興味深かったからだ。

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