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映画「劇場」、私の殺意。

さいきん、プライムビデオに興味のある作品が追加されていて、少しずつ見ている。
 
映画を観る気力のようなものも、ここのところ失われていた。
小説を読む気力のようなものは、もうとっくに失われていたので、読みたいと思いつつ読んでいない小説が原作のものを選んだ。

「劇場」「ファーストラヴ」「マチネの終わりに」の3作。
ひとつずつ、書いてみる。

「劇場」では、主人公の男に殺意を覚えた。

それは、その男の中にかつての(今もか?)自分の要素を見たからかもしれない。
そう、私は私のそういう部分について、殺意を覚えているのだ。それほど消したい部分なのだ。私のそのような要素に当たった人は、おそらく、もう私のそばにはいない。具体的に言うならば、昔の恋人たちとか。もう連絡を取ることのない友人とか。同時に、消されている自分も感じている。関わったことを、なかったことにされている人がいる。それは同時に、私も、彼らと関わったことを、なかったことにしているのだが。

演劇というテーマも、また(私にとって)よくなかった。 私が学生時代に演劇をやっていた頃、あんな男はゴロゴロいたし、私自身もあんなクズの女版だったと言えるだろう。身につまされすぎて、肯定も否定も受け付けかねる。となると私にとってみる意味があまりないものとなってしまう。

Amazonレビューに「キム・ギドクの『悪い男』のようだった」と書いている人がいた。そういえば出会いのシーンも似ているか・・・? 確か道端で出会う、そんな感じだった。
しかしどちらもひどい男ではあるけれど、「悪い男」のほうには私は殺意までは感じなかった気がする。違いは何だろう?と気になった。

思うに、「劇場」の男の態度は甘えにしか見えないのだ。「悪い男」は、そうせざるを得ない背景を感じる。その違いかもしれない。それは「劇場」の男があまりにも自分に近すぎて、私はそれを嫌悪して拒絶しているから、仮に背景のようなものが描かれているのだとしても、それが免罪符や理解の手がかりにはならないのだろう。それ自体が甘えだと、もうすでに断じているから。

 不思議なもので、この作品を見終わった直後には「この映画は観る意味があるのだろうか?私が主人公に殺意を抱いて終わっただけ」などと思ったのだが、こうして掘っていくと紛れもなく私に何かを考えさせ、気付かせている。

もうずっと、私には映画や本の感想が書けない、と思っていた。
実際にこの文章を書く前に印象をメモした文章では、端的な個人的印象と評価しか書いていなかった。それは作品について書いてはいるが、貶めているだけで、外に出すのは憚られた。
だから改めて、私について書くという形で感想<のようなもの>を書いてみることにした。それがこの文章だ。
書いてみて少し面白かったので、残る作品についても同じ態度で書いてみたいと思う。

づづく。かな。

参考。


ま、これを「純愛」って言われてもねぇ・・・

という思いはいつもある。どっちらけ気分。

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