暇だと思わされる人生
これを書いているのは日曜日の21時だ。
つまり、3連休が終わろうとしている。
元々、3連休に入る前に予定はなかった。
あえて言えば、整体の予約だけ入っていたので30分だけ予定が埋まっていたくらいだ。
初日には、足つぼに行こうと思って日曜日に1時間の予約を入れた。
3日を振り返ってみて、何をしたかこれといって覚えていない。
1日目はだらだらしているうちに終わったように思う。
1冊だけ本を読んだので、日頃からすれば多少は有意義だった。
2日目は、足つぼを受けた後は、ちょっと遠出してパスタを食べに行った。
しかし、目当てのパスタ屋が臨時休業ということで、かなり無為に終わったのを覚えている。
せっかく遠出したので、ウォーキングがてらに色々な店を回ったが結局何も買わなかった。
3日目の今日も特に何もしなかった。
起きてだらだらした後は整体に行った。
昼飯を外で食べて、その後は図書館で予約していた本を受け取った。
本を読みながらちょっと疲れたタイミングで
自分の持ち物を整理しようと思って、スプレッドシートを開いてメモった。
いらない服やらモノをポンポン捨てた。
18:00手前で眠くなったので15分だけと思ってタイマーをかけて眠った。
起きたら19:00頃になってしまって、これ以上寝たら夜寝れなくなると思って急いで起きた。
適当にスーパーに行って、ご飯を買ってきて、You Tubeを見ながら食べた。
食べ終わった後も腹が重いので、ぐったりしながらYou Tubeを見続ける。
そろそろ風呂に入ろうと思って、風呂を沸かしながら今この文章を書いている。
今日は予約していた本を1,2冊くらいは読もうと思っていたが、全然進んでいない。
1冊目の1/4くらい読んで止まっている。
この後は、風呂に入りつつ、風呂に紙の本は持っていけないので電子書籍を読むだろう。
風呂から出る頃には、そろそろ寝る支度を始めないといけない時間になる。
うーん。
暇という割には時間が足りていない。
この現象は、結構よく起こるがなんだろう?
積読や積みゲーなどは、多くの人にとって身近な現象だと思う。
友人や同僚もよくそういう事を言っている。
取り立てて、特別なことでもない。
日頃から暇だのなんだの言っているが、何かやりたいと思うことはそこそこあるものだ。
実際、3連休ということで昔やっていたゲームを再度ダウンロードして準備だけした。
ゲームやるよりは、読書をやろうかなと思って、そちらにシフトしたが読書もあまり進んでいない。
ちゃんと改めて考えてみたら、僕は別に暇ではないんじゃないだろうか。
単純に有意義に過ごせなかったので、後悔はしているが、積んでいる本はある。
別に誰に披露する訳でもないので、自分が本心から読みたいと思った本だ。
とりあえず、目の前に5冊積んである。
別にnoteにブックレビューを書くつもりもないし、同僚とも仕事の話しかしない。
友達はいるが、数ヶ月に1回程度の割合で近況報告なり、考えていることを話すだけだ。
だから、目の前にある本やら今日見たYou Tubeやら、やろうと思っていたゲームは、何の先もない。
ただただ、自分がやってみようかなと思った、自分だけの娯楽だ。
それを消化しきれず、まだ目の前に積んであるということは、むしろ忙しいんじゃないだろうか?
それが一般的に見て、ただの暇つぶしだったり、無意義だったり、目標やキャリアと何ら関係ないから、自分で自分の趣味を低俗なものとして見ているだけで、本当は僕は忙しい人間なんじゃないか?
暇なんてとんでもない。
本当は忙しいし、時間が足りないんじゃないだろうか。
今読んでいる本で「日本人は真面目だから、目的とか目標に支配されている」的なことが書いてあった。
これは痛いほどよく分かる。
というか、今の僕そのものの状態だ。
僕としては、自分の仕事人としてのキャリアのアッパーは見えた。
それも一般的に見て、それほど悪くない。
出世競争はそれなりに勝ってきて、羨ましいと言われることもある。
複数の部署のマネージャーをやっていて、これ以上の昇進をしようとすると厳しい。
昇進した時のメリットも特になく、今の状態を維持するのが楽だ。
だから、僕は出世を遠ざけて面倒なことが降ってこないようにしている。
8時間以上は働かないようにして、なるべく自分の時間を確保する。
もっとこうしたら良いのにと思っても、求められていないなら半歩先を踏み出さずに様子を見る。
必要になったタイミングで、必要なだけ効率化をする。
世の中は残業でカバーする人が多く、生産性を気にしている人はそれほどいない。
もっと効率化できると思っても、一生懸命やっているように見えれば、指摘が来ない。
もうギリギリとなった時に、必要に応じて効率化をして生産性をあげると評価される。
ただし、それはちょうど良いタイミングだから気づいてもらえるだけで、先んじて実施してもそれが当たり前だと思われてしまう。
仕事で多少支障が出てきたくらいで、満を持して披露したほうがインパクトが大きい。
まぁそんな事はどうでも良いのだけれど、とにかく僕は一生懸命働いてキャリアを伸ばすのを止めた。
結局のところ、みんななんだかんだで文句を言いながら仕事をするのが好きなのだ。
文句がない状況であれこれ手を差し伸べても、それが当たり前だと思われると価値が薄くなる。
先んじてやり続けることでもっと出世できるかもしれないが、出世しても別に給料が2,3倍になるわけじゃない。
単に部下が増えて心労が増えるだけだ。得がない。
そう思っているので、僕はもう勝負や出世競争から降りている。
こんな事を言うのもなんだが、出世をするつもりがなければ、上司からの期待も逸らすのは難しくない。
会議の際にもっとこうしたほうが良いと思っても、手を挙げなければ余計な仕事は増えない。
若い頃はそれがチャンスだと思っていたが、キャリアに興味がなければ、自分の首をしめるだけだ。
そのくらいやる気のない僕でさえ、染み付いた考えというのは強力だった。
つまり、目的や目標のない「生産性のない自分のやりたいこと」を無意識に遠ざけようとしているのだ。
仮にやりたいことだとしても、計画を立てて遂行しようとする。
自分は、1日に◯冊まで本を読む能力があるから3連休で◯◯冊は読めるな、など。
どうせなら、この分野の本を読んで読み終わった後には、こういう事ができるようになるな、など。
ゆるい人生観について書かれた本を◯冊読めば、適度にリラックスできるかも、など。
それは本当にやりたい事なのか?
自分の人生は、求めてもいないキャリアや生産性に支配されて良いのか?
子供の頃に、そんな打算的に本を読んでいたのか?
目の前に広がる新しい物語や価値観に目を輝かせていた僕はどこに行った?
3連休、せっかくなら沢山本を読もうと思った。
それ自体は自分がやりたいと思うなら良いことだ。
けれど、2冊しか読み切れなかったという判断は、別に適切ではない。
本来◯冊読む能力があるから、効率が悪かったとか生産性が低かった、ではない。
それがこの3連休の僕のペースだということだ。
3日間を思い出してみても、ぱっとした事は思い浮かばない。
読んだ本も面白かったが、じゃぁどこが良かったかと言われても別に覚えていない。
予定は立てられなかったし、振り返っても有意義だったとは言えない。
けれど、別に僕はその時々で暇ではなかったし、目の前にやりたいと思っていることはまだ積んである。
僕は最近、暇だとか、暇過ぎて絶望だとか考えていた。
けれど、要は本来存在しないあるいは求めていない「架空」の「目標」や「目的」に縛られて、それと比較して自分を卑下していたんじゃないだろうか。
休みには自分磨きをしなければならないとか。
あるいは、逆に来週の仕事をより頑張るために沢山休まなければならないとか。
もう僕はそういったレースや勝負から意識的に降りたはずなのに、まだその残滓に無意識に縛られているんじゃないだろうか。
周りから押し付けられた価値観だとか、周りの期待に答える自分という理想だとか。
息苦しい、自分から遠ざけたはずのものを実は遠ざけられていなかったのかもしれない。
だって、別に自分のやりたいことは目の前にある。
5冊の本が目の前に鎮座している。
3連休で「消化」できたら、それは生産性が高かったのかもしれないが、またやりたいことを探すのに逆戻りだった。
けれど、別に平日に仕事の始まる前や終わった後に読めばいいだけの話だ。
本はどこにも逃げない。
連休で読みきらなかったとはいえ、だから何か不都合があるのかというと何もない。
むしろ、連休が終わってもやりたいと思ってる事が目の前にあることのほうが有り難いじゃないか。
どうも僕は週末を区切りとして考えすぎているのかもしれない。
区切りよくタスクを消化できなかった自分を責める必要なんてない。
だって、明日だって本くらい読めるし、どうせすぐにまた次の休みが来る。
誰かや架空のペースと比べたって仕方がない。
今自分が本を読みたいのかどうかだ。
読んでいて疲れたら、適当に時間を潰せば良い。
またページをめくりたいと思うまで、いくらでも待てば良い。
どうせ図書館で無料で借りてきた本だ。
まったく損なんてしない。
気乗りしなければ、読まずに返せば良い。
だらだらと過ごした3連休だったが、こうして振り返ってみて大事なことを取り戻せた気がする。
自分のペースで自分のやりたいことを好きなタイミングでやれば良い。
そしたら、暇だとか、暇について考えるとか、そんなつまらない時間は少しずつなくなっていくんじゃないだろうか。
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