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儚さと侘び寂び

2,3日前に散歩している時に紅葉の鮮やかさに驚いた。
特に黄色い葉がキレイでひときわ輝いているように見える。
既に枯れ木になってしまったものや、濃い緑色の葉が多い中、黄色が目立ったのだ。
濃い赤色もキレイだったが、黄色は色として際立って見えた。

いや-自然はキレイだな。
いつもの散歩ルートでも、日々変化があるし、新しい発見かあるな。
そう思いながら本日、同じルートをジョギングしていて気がついた。
どうにも色鮮だった黄色い葉が見る影もないのである。
既に枯れ葉として落ちてしまっていたり、色も茶に近づいている。
それこそ昨日までキレイだったと思っていたのに、1日で大きな変化だ。

こんな急に儚く散ってしまうのは、桜くらいだと思っていたので驚いた。
まぁ、自分の知識レベルの無さから来る驚きなのだとは思うが。
いやー、儚いな。儚さの中に侘び寂びがあるなと感慨深かった。
そんな事を思いながら、ちょっと遠い所まで行くことにした。

また別の公園があったので入ってみると、まさに昨日のようなキレイな黄色い葉を茂らせた木々が見つかった。
先程の木を見て残念な気持ちがあったので、今度はまじまじと見ることにした。
明日になったら、またこんな光景は見れなくなるんじゃないかと思ったからだ。
逆に、色々な所を探せば何日かはこういった木を見つけられるんじゃないかとも考えた。
直感的に、侘び寂びと言うものの希少価値ってものは少ないのかもという声も頭の中で聞こえてきた。

いやいや、そんな事はないか。
人間の目から見たら、同じ木というカテゴリかもしれないが、当然一つひとつの木々は違う。
木というカテゴリで見ているから、同じものを見た気持ちになっているが、枝の伸び方とか葉の茂り方は全て固有のもののはずだ。
これが小さい子どもの成長などであれば、同じ人間として差に気がついただろうに。

僕が単に木々に詳しくなく、かつ、ジョギングがてら適当に見る程度しか関心がないからそう思うのだ。
そもそも、ちょっと前の僕は散歩の際に木なんて大して見ていなかった。
頭の中で考えているテーマについてあれこれ考えているだけで、風景には目もくれず頭の中の会話に集中していた。
何日も続けていて、考えるテーマも尽きてきたので、周りの風景を見始めたのだ。
そういった環境の変化とか、ちょっとした差分に少しずつ気がつくようになって、始めて2,3日前に目を見張るような紅葉に出会った。

学生時代、就学旅行に行っても、バスから出ずにバスガイドに怒られていた自分からすると、大きな違いだ。
(観光に来たのに、お前は何をやってるんだとバスから追い出された)
ネットや電子ツールなどによって、大味の方向性や雑で大量な情報に流されやすくなっている。
しかし、本来的には、足るを知るというか、こういった日々の変化にも有意義なものは転がっているんだな、と素直にそう思えた。
というよりは、こういった小さな儚い違いに気付ける余裕やゆとりが豊かさなのかもと思うのだ。

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