総体としての人間。その手触り
最近、アリとかハチとかの事を考える。
そして、人間ってのもその延長じゃないかと思うのだ。
アリは単純な思考しか持たない。
DNAレベルで刻み込まれていて、何か悩むことも恐らくないのだろう。
エサを見つけて、巣に持っていく。
専用の感覚器官を持っていて、スキルに特化している。
比較して、人間はアリなんかよりも自由意志があるように思える。
当然ながら脳の大きさはケタ違いだ。
脳がでかい分、夢を詰め込めるのだろう。
アリに比べれば、様々なことができるような気がしている。
無限の可能性があるのだ。
と言った所、立ち止まりが生じる。
本当に無限の可能性なんてあるのか?
僕個人で見た時に、昨日と自分と今日の自分にどんな差分があるのだろう。
アリの事を単純だと下に見るように、自分だって別に単純なのじゃないか?
世界の人口は80億人いて、それぞれが様々なことをやることで、インターネットにニュースが舞い込んでくる。
だから、毎日、毎秒何か起きている気がするのだが、別段特別なことなんて起きてないんじゃないだろうか?
一人ひとりの人間に焦点を当てた時には、それぞれ毎日同じような生活を繰り返しているだけなのでは? と思うのだ。
単に、僕とは異なる環境に置かれている人が、同じことをやり続けた結果として何かしらニュースになるような事が起きているに過ぎない。
この考えが正しいのであれば、要は人間もアリと特に変わりがない。
身体が何倍も大きいので行動範囲がアリの縮尺からすればちょっと大きいだけの事だ。
僕らもアリと同じように個々そのものに大きな価値はなく、総体として集まった時にコロニーを形成し、コロニーに依存して生きている。
むしろ、アリなんかよりも一人ひとりの能力は低いんじゃないだろうか?
例えば、僕以外の人間が急にいなくなってしまったとして、多分僕はすぐに死ぬだろう。
水くらいは調達できるかもしれないが、それ以外の飲食はどうにも出来ない。
恐らく重要なのは、火を起こせることで、それができれば一気に幅が広がるが、火の起こし方は知らない。
一方でアリは他のアリがいなくなったとしても、巣が作れないくらいで食べ物を探すだけで良いんじゃないだろうか。
まぁそんな話はどうでも良いのだけれど。
僕が考えるのは、僕が人間という種だから人間を特別に思っている訳で、地球というスケールで考えるだけで、別にアリなんかと同じもんじゃないのかということだ。
で、アリが総体としてコロニーを形成しているように、人間も同様なんじゃないかと。
その仮定が正しいとしたら、僕個人は人間で言うところの指先の一部の触覚に過ぎないのではないかと思うのだ。
そういった触覚の一部が寄り集まって全体として、人間というコロニーを作っている。
そもそも脳も似たような仕組みで、神経細胞同士は離れていて、どこかの神経がピカっと光ったら、周りの神経もピカっと光って波のように広がっていくようになっている。
個別の人間の脳の中にこういう仕組みがある訳だが、これをちょっと引いた縮尺で見たとしたら、同じことが人間世界、というか世界には起こっていると思うのだ。
人間が複数いる時に、その複数の人間はニューロンのように離れている。
例えば僕が町中で突然踊りだしたら、他の人たちはそれに対して何らかのリアクションをする。
そういう事の繰り返しなんじゃないだろうか。
というか前述した通り、人間世界ではなく、世界そのものが同じなんじゃないだろうか。
非常にシンプルな仕組みとして、総体である世界と手触りである人間やら何らかの感覚器官がある。
それらが作用しあって、世界というものが形成されている。
一つひとつの神経細胞のピカっは別に大きくないが、その反応のさざ波が時には大きくなる時もある。
砂漠にいる蝶の羽ばたきが竜巻を起こすように。
じゃぁ、総体に意志があるのかというと別にない気がする。
となると逆説的に個としての意志もない訳だ。
単純にDNAに従って、個々人の手触りにとっての快と不快に沿って、反応していく。
個人そのものは多様ではないが、そういった手触りは人間だけで80億いる訳だし、世界にあるものの一つひとつの感覚を混ぜたら数えきれないほどある。
だから、そういった感覚器官の総体で見た時には多様性が担保されている。
ゆえに総体として、とりあえず続いているのではないか。
うーん。
文章にしてみたら何かしら新しい発見はあるかなと思ったが、何となく整理できただけだ。
もう一つだけ、この考えの発端になるかもしれないことだけ書いておく。
僕はFIREを意識しているので、つまり、人間世界における経済活動から離脱しようとしている。
そうなってくると、働かないおじさんになるので、いわゆる人生の意義的なものを失うかもしれない。
その抵抗として、「いや、別に働いてなくても総体における触覚なんだよ」みたいな「生きてさえいれば役に立っている」論に傾倒し始めているのではないか。
要は、自分自身を肯定するための言い訳として、こういった考えが浮かぶのではないかと思うのだ。
一方で、まぁ生物として生きてさえいれば何らかは消費する。
その消費量が人よりも少ないからといって、ゼロという訳ではない。
今日食べる米にしても、まず生産者がいるし、運んでくれた人もいるし、調理してくれた人もいる。
もっと遡れば、その米を作る人を産んだ両親とかにも繋がるし、そもそも米という技術を確立した先祖にも繋がることは繋がる。
要は、一人で生きるということは原理的に不可能であり、全体的に繋がっているのだ。
それ自体は嘘でも言い訳でもない。
単純に人間というコロニーの中で、消費しかしなくなる自分というのがあったとして、ただ消費しかしなくなる前の自分は生産をしていたからその時の蓄えで消費する訳だ。
なので、別に卑下する必要はない。
単純にその流れが分かっていない人から、変な目線で見られるだけだ。
といって、その目線というのも単純に自分の脳内で作り出している仮想のような気もしている。
僕は朝昼夜に散歩をしている。
平日は、昼飯を食べた後で散歩している形になる。
そうなると、平日にその辺を歩いているおじさんということになるので、普通の感覚からしたらおかしい人のように映るはずだ。
リモートワークという手段は多くの人が知っているだろうが、コロナが落ち着いた今となっては少数派であることは確かだろう。
けれど、別段周りの人から奇異の目で見られた事はない。
というか、別に誰も僕のことなんて見ていない。
逆に言えば、僕だって昼間から歩いている人たちを見かけるが、わざわざそんな「この人働いてないんじゃないか?」みたいな事を考えることはない。
実際の所は分からないし、考えても別に僕に得はないし。
ただただ、なんか人が歩いているな、くらいにしか思わない。
そうなると前述の通り、「働いていない自分を恥ずかしがる」というのは、自分自身が勝手に脳内で作り出している非難でしかない。
結局のところ、自分が納得するかどうか。肯定するかどうかに帰結する。
なんとなく脇道にそれてしまったのだが、仮に書いたことが正しいとした場合。
僕としては、単なる触感というか手触りとして、自分にとっての快楽、つまりやりたい事を追求すれば良いんじゃないかという意識が強くなってきている。
結局、人間外の生物あるいは無形物も含めた多様性は、世界というコロニー全体で担保されていて、個々の動き自体は大きくは作用しない。
であるならば、個としてのやりたい事を追求した方が僕にとって得だ。
別に、何か反社会的な事を考えている訳でもないし。
仮に反社会的な事をしてしまったとしたら、別の触感が集まってきて僕を捕らえるだけの話だし。
総体としての辻褄は合うようになっているのだ。
なので、なんか良くわからないことを長々と書いてきたが「個としてはやりたいことを追求する」というのが大事だと最近では思っている。
その理由付けとして、なんかこの長々と書いてきた言い訳のようなことを考えている。
のかなぁ?
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