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(私的?)ラジオの現在地


ラジオ。みなさんとラジオの関りは是非とも知りたいところ。今回は僕が自分とラジオとの関りについて考える中で、ラジオの復権が起こっているのではないか、という仮定を立てた、という話。僕がそうした仮定を立てるに至った要因を分析する過程で、我々の身の回りの生活と技術の関係性の変容、テクノロジカルランドスケープの変容についての視点を提供することができればと思い、筆を執った。

ただし、繰り返しになるが、あくまで私的なラジオとの関りから出発したものであるし、あくまで仮定にすぎない。データ的な裏付けに乏しい。しかし「2020年から2021年にかけて、僕がこんなことを感じていた」という個人的な感覚を記しておくことにはそれなりの意味があるとも思う。さあ、まずは僕とラジオとの関りについて。

ラジオとの関り

高校の時、深夜ラジオが好きだったわたくし。当時高校生、関東在住だったわたくしはとりわけFM79.5 Nack 5のラジオのアナ、ラジアナの火曜日、松浦閣下担当回を毎週楽しみにしていた。しかしこの番組は24:00~29:00放送で、徹夜明けで高校に行くのは、当時の僕にはどうもできなかった。翌朝から高校に出かけなければならない。が、松浦閣下の声は聴きたい。二つの思いで板挟みになったわたくしは、火曜日の夜、21時過ぎまでには就寝し、26:00~27:00の間に起床。番組のおよそ後ろ半分を聴くことにしていた。Soul Flower Unionについて知ったのもこの番組のおかげ。

ある日、松浦閣下は担当を降りた。その後も当時から聴いていた文化放送の地上波のアニラジは聴き続けていた。ネットラジオだと音泉で「佐倉としたい大西」を聴き始めるなんてこともあった。が、近畿に引っ越して、地上波のラジオを聴く時間が大分短くなった。環境が変わったのと、関西のラジオ事情をよく知らなかったから。それこそ関東でも関西でも聴取可能なアニラジぐらいしか聴かなくなってしまった(例えば神谷浩史・小野大輔のDear Girl ~Stories~)。一度、態勢が固まってしまうと、情報収集をする気を起こすのも難しい。高校時代の水準で地上波のラジオを聴くのを再開したのは、2020年の7月。村上謙三久『声優ラジオ”愛”史』を大学の図書館で手に取ったことがきっかけだった。同書を読んで、ラジオ関西で「青春ラジメニア」という番組が放送されているのを知った。リクエストに関するルールが面白い番組なので、以下公式webサイトから引用する。

ラジメニアの基本リクエスト範疇は……
  ・アニメ、特撮、ドラマ、ゲームボーカルのOP、ED、イメージソング
  ・挿入歌、BGM、キャラクターソング
  ・声優さんのオリジナルソング

声優ラジオをいくらか聴いていたわたくし、このルールを知って興奮してしまい、土曜の20時にラジオの前に座るようになった。部屋の中ではラジオ関西の電波をあまりうまく拾えなかったので、建物の前の庭で椅子に座って電波を拾ったり、近くのコンビニの前で電波を拾ったりした、している。ふつおたも送ったし、ありがたいことにリクエストも何曲かかけてもらった。さて、ラジオ生活を再開したある日、ラジメニアのパーソナリティの岩崎さんがtwitterで取り上げていた記事に目が留まった。

この記事に限らず、2020年に入ってからラジオへの注目が高まりつつある、聴取率が高まり、聴取時間も伸びたという話は時々耳にしていた。例えば以下のような記事。

このような諸々の記事を読んだことや2020年というタイミングでラジオを再び僕が聴き始めるようになったことをきっかけに、僕は、僕とラジオとの関係性について考え、ラジオへの注目が高まりつつある社会的背景についての仮説を組み立てた。今回は以上の関係性と仮説について記してみたい。もっともTVの視聴量も増えたというデータもあるのでラジオに限った話ではない、というツッコミが入る可能性をチラ見しつつ、あえて今回はラジオの復権の社会的背景についての仮説を開陳する。繰り返しなるが、多分に僕の肌感覚による仮説として、お付き合いいただけるとありがたい。

画面疲れ

まず骨格から示すと、社会的にラジオへの注目が高まった要因として考えるのは大別すると二つある。「画面疲れ」と「適度な双方向性」との二つである。まずは「画面疲れ」から。

20世紀以降、人類は映像を生活に取り入れていった。映画やテレビ、比較的最近では、web上の動画サイト等々。ここでは、その中でも画面を通して見る映像(画像)について議論したい。本邦に限れば、カラーテレビの普及率は1960年代後半以降に急激に上昇し、1970年代には9割を超えた。総世帯のPC普及率も2000年後半には6割を超える。webに関して言えば、1992年には本邦初のinternet service providerのサービスが開始された。ブログやBBSが立ち上がり、1999年には2チャンネルも開設される。2005年前後には、youtubeやTwitter, FacebookといったSNSが相次ぎ誕生していった。近年ではamazon prime, Netflix, Hulu等のサブスクリプションサービスもこうした画面との生活に拍車をかけているかもしれない。長々列挙しても仕方がないのでこのあたりで止めるが、画面を通した映像は手を変え品を変え、あるいはメニューに載っている料理の品数を増やしながら、着実に生活の中に浸透していった。またこの間、オフィスワークがPCで行われるようになっていったこと、コンシューマーゲームの普及、スマートフォンの普及も見逃せない。iモードの話も抜かしている。ただここでは、細かいサービスの話はもういい。大雑把な認識で構わない。映像と接する時間が増大し、生活の一部の要素を代替したり、要素そのものを新規に創出したり、作り替えたりしていったということさえわかってもらえれば。

結果として社会の情報伝達においては、五感の中で、視覚だけが特権的な位置を占めるようになり、我々は情報の多くを視覚を通して得るようになっていった、そして疲れていったのではないだろうか。しかし画面の明滅による刺激に誘われ、疲れているにも関わらず、画面の束縛・動画の拘束から逃れられなかったのではないかとも。少なくとも僕は多分にそうだし、今でも逃れられていないと感じる。TVを付けては高校野球の過去の試合の映像をぼんやりと何時間でも見ているし、夜になればNetflixでアニメを見、Huluで深作欣二監督の「仁義なき戦い」や「北陸代理戦争」あたりを繰り返し鑑賞している。PCの電源を入れては動画ばかり見ている(もっとも現代のSNSに関して言えば、閲覧履歴に基づく関連情報や広告が延々とTLやおすすめに流れ続けていて、そのせいもあるだろう。SNSのインプレッションをできる限り長くしようという戦略にまんまとはまっているわけだ)。スマホゲームにはどうもなじめないが、据え置き型コンシューマーゲームの皆様とは小学生以降息の長いお付き合いをしているし、時たまゲーセンでもゲームをプレイする。

逃れられないにしても、そうして画面を通した情報摂取が増大し、画面疲れを起こしている人にとっては、聴取に聴覚しか必要としないラジオは一種魅力的に映ったのではなかろうか。かつてTVに対して、映像を提示できないという劣位にあった。しかし、視覚的な情報が氾濫し、一種の疲れを引き起こしているような状況では、かえって情報が少ないということが魅力になりうる。今やデジタルデトックスという言葉もある。情報の氾濫から逃れること、逃れることを可能にする時間自体が価値を持っているのだ。提示する情報量が少ない/適度なメディア、という新しい意義がラジオに付与されたとしても何ら不思議ではない。

このように足元で転換が起こりつつある中で2020年を迎えたわけだ。リモートワークや大学のオンライン講義、中高・予備校のオンライン授業などがぞろぞろと前面化した。ビデオ会議自体は前々から技術としてあったし、edxやcouseraという形でオンライン講義やオンラインでの単位認定を行っている大学は前々から存在した。問題は、今まで任意のサービスだったものが前面化し、半ば強制的な形になったことだ。加えてリモートワークに対応して、zoom飲み会のような、従来からあったオンライン飲み会が注目を集めた。「画面の世界」に取り込まれることなく残っていた他人との会話というある種の聖域までもが消滅してしまったのだ。あるいは、他人との会話の「画面の世界」への取り込みが任意のものから、強制的なものとなったということだ。2020年に起こった以上のような出来事は、ラジオの意味付けの転換にとって最後のワンピース、堰を切る一撃だったと考えている。

何より2020年度に入ったあたりから、中高生のラジオへの投稿が増えたような気がしている。勿論僕が毎週聞いている地上波のラジオ番組は、二桁にようやく届くぐらいのもので、アニラジばかりなので、非常に限定された範囲の話に過ぎない。が、例えば2020年、「林原めぐみのTokyo Boogie Night」ではMCの林原さんは中高生の投稿が増えたことに番組中で言及していた。曰く休校期間で家にいる時間が長くなったのが原因だという話だったと記憶している。翌日登校する必要がないので、夜遅い番組でも聴取できるのだとか。「ん?Tokyo Boogie Nightって土曜の夜じゃねえか?」と思ったのだが、それはラジオ関西で聴取している僕みたいな人の話。TBSラジオでは日曜の24:00~24:30放送。関西に来た途端、関東のことを忘れるのも困りもの。

とにもかくにも「画面疲れ」に基づく、ラジオの意味の転換は以上のようなものだ。情報が氾濫する時代にあっては、視覚的情報が少ない情報源がかえって魅力となりうるという話だ。

過度な双方向性――SNSとTV

先ほどのラジオ復権の理由の二つ目、ラジオが「適度な双方向性」を有しているということを取り上げよう。そう主張するからには、他のメディアの中には、「適度でない双方向性」、「過度な双方向性」を有しているものがあるという話になる。そう、皆さんご存じSNSである。まずはSNSを取り巻く現況についてくどくど語るので、お付き合い願いたい。

かつてwebによる政治の可能性というものが信じられていた時があった。これからは誰でも自由に発信ができる時代だと。意見発信が民主化され、webサービスによって、民主主義はますます発展していくのだと。2010年代には、Twitterによる動員の革命が始まった。北アフリカ、西アジアでは「アラブの春」、アメリカでは「オキュパイウォールストリート運動」、本邦の東日本大震災以降の反原発デモ等、世界各地で、TwitterやFacebookによって、かつてなら繋がるはずの無かった人々の連帯が生じる「動員の革命」が始まったのだ。そんな中、東浩紀は2011年に『一般意志2.0』の中で、web上に散らばる意見を集約することで、新しい討議形式や政策立案が可能になると主張した。

しかし蓋を開けてみればどうだったろうか。この件に関しては、宇野常寛の『遅いインターネット』によくまとめられているので、以下引用しよう。

-「いまこの国のインターネットは、ワイドショー/Twitterのタイムラインの潮目で善悪を判断する無党派層(愚民)と、20世紀的なイデオロギーに回帰し、ときにヘイトスピーチやフェイクニュースを拡散することで精神安定を図る左右の党派層(カルト)に二分されている。
-「まず前者はインターネットを、まるでワイドショーのコメンテーターのように週に一度、目立ちすぎた人間や失敗した人間をあげつらい、集団で石を投げつけることで自分たちはまともな、マジョリティの側であると安心するための道具に使っている。
-「対して後者は答えの見えない世界の複雑性から目を背け、世界を善悪で二分することで単純化し、不安から逃れようとしている。彼ら彼女らはときにヘイトスピーチやフェイクニュースを拡散することを正義と信じて疑わず、そのことでその安定した世界観を強化している」(中略)
-「彼らは週に一度週刊誌やテレビワイドショーが生贄を定めるたびに、どれだけその生贄に対し器用に石を投げつけることができるかを競う大喜利的なゲームに参加する。そしてタイムラインの潮目を読んで、もっとも歓心を買った人間が高い点数を獲得する。これはかつて『動員の革命』を唱えた彼らがもっとも敵視していたテレビワイドショー文化の劣化コピー以外の何ものでもない。口ではテレビのメジャー文化を旧態依然としたマスメディアによる全体主義と罵りながらも、その実インターネットをテレビワイドショーのようにしか使えない彼らに、僕は軽蔑以上のものを感じない」       -「あるいは彼らは、人々はもはや考えないためにこそインターネットを用いることを前提に読者が欲しがっている言葉を、最初から結論が分かっている議論をまるでサプリメントのように配信する。そしてサプリメントを受け取った読者はいまの自分は間違っていないのだと安心する。自分は善の側に立っていることを確認し、反対側の悪を非難すれば自分は救われると信じることができる。
-「これがインターネットポピュリズムで政治を動かすと宣言した『動員の革命』の現在形なのだ。そしてその実体は平成のポピュリズムの超克ではなく、その補完以外の何ものでもなかった。元号が変わっても、平成というポピュリズムの時代は終わる予感すらない。」(宇野常寛『遅いインターネット』p.20-21)

このように、webサービスやそれに連なる動員の革命は、民主主義を進展させるどころか民主主義に停滞、危機(民主主義のようなシステムにとっては停滞すなわち危機であるといえるかもしれない)をもたらした。本邦で言えば、民主主義の内実は、テレビワイドショー文化に対するオルタナティブとしてwebが立ち上がった30年前、あるいはSNSが相次いで登場した15年前とおよそ変わっていない、否、30~15年前の状態からさらに一段沈み込んだ世界が転がっている。その沈み込んだ世界では「生贄に対する石投げをする大喜利的ゲーム」と「大喜利ゲームによる点数評価」とが絶えず繰り返されている。

(ちなみに宇野は、同名のwebサイトも運営しており、良質な記事によって良質な読者をつくり、良質な発信者を作る「遅いインターネット」計画を手掛けている。)

こうした「石投げ」に嬉々として参加している人間は良いが(石を投げつけられている人間がいるという点では全く良いことなどないのだが、ここでは「大喜利ゲーム」をいかに解体するかについては扱わない。『遅いインターネット』に書かれたことをなぞるのはここでの本旨ではない。)、参加を望まない人間に提示される情報の序列を歪めている。ここで考えたいのは、どの芸能人が他人と不倫をしただとか、覚せい剤の使用で逮捕されたとかという話題は(あるいはそういう話題に関連する「石投げ」は)、「石投げ」に興味がない人間にとって、果たして重要度が高い情報なのか、ということである。答えはおそらく否だろう。

しかし、twitterのTLにはそうした「石投げ」のツイートが周期的に流れてくる。先ほど宇野が指摘したような評価システムによってtwitterが成り立っているのだから当然と言えば当然ではある。ただ情報の過剰摂取によってただでさえ「画面疲れ」を起こしているところに、重要度の低い「石投げ」の話や見るからに怪しげな陰謀論やヘイトスピーチばかり流れてきたらどうだろうか。テレビワイドショー文化への幻滅が生じたときのように、SNSへのある種の幻滅がもたらされてもおかしくないのではないか。しかもそうした炎上に参加している人はSNSユーザ全体の1割以下だという(総務省令和元年版情報通信白書)。SNSの中でも別段多くの人が賛同して起こっているものでもない。この事実はなおのこと幻滅を誘うように思われる。

この二つ目の「適度な双方向性」の部分で、先の宇野の議論をもとに述べておきたいのは、次のことだ。SNS上でのテレビワイドショー文化の劣化再現を可能としたのは、過度な双方向性を持ったSNSが「石投げ」をすることで自我を確立したという錯覚をユーザに与えたことである。SNSの場合には、いいねやリツイート、ブースト等によって示される「大喜利ゲームによる点数」は、時として急速に跳ね上がり、その実他人の意見をもとに自分がマジョリティ側にいるということを確認したに過ぎない人間がオピニオンリーダーのように祀り上げられる。その後も昼夜を問わず「採点」は行われ続ける。他方、ラジオはそういったSNSのもつ双方向性とは違った種類の双方向性を持っているのではないかということだ。

ラジオの双方向性がどのようなものかについて触れる前に、ここでTVとSNSとの連関について言及しておかねばなるまい。ご存じの読者が多いことを想定して書いているが、TV文化の終わりが叫ばれ始めてから久しい。「TVはオワコン」などと形容されるのを何度聞いたことか。SNSとネットメディアの発達に押され、TVはその固有の存在意義を失い、20世紀に確立された支配的映像メディアの座から引きずり降ろされた。

しかもTVは凋落の過程で、その内容を変容させていった。すなわちネットメディアの二番煎じになったのである。特にバラエティー番組でその傾向は顕著だ。例えば「やってみた」系のyoutuberの動画と内容が大差ない企画が展開されていたり、深夜時間帯でパチンコやゲームの実況番組が流れていたり。昼間のワイドショーやニュース番組もSNSで話題の動画・事柄を取り上げて「報道」し、嬉々としている。TVはSNSを補完する存在であるとすら言うことができ、TVはもはや過度な双方向性を食い止めるどころか、そうした傾向を助長することしかしていない可能性がある。

先ほどの記述と矛盾するではないかと感じる読者もいるかもしれない。「インターネットがテレビワイドショー文化の劣化コピー」であると記している宇野の書籍を引き、舌の根も乾かぬうちに「TVがSNSの二番煎じと化している」とはどういうことかと。要は、今まで延々述べてきたSNSの劣化は、現象の片面に過ぎないということだ。web上のサービスとTVとは、視聴者を取り合う対決をする中で、お互いの駆動を取り込みながら、それぞれに対して人々が抱いていた理想的な状態を逸脱して、相互を腐らせてきたということである。こういった現象は何も特別なものではなく、対立するもの同士が互いに他方に打ち勝とうとするとまま起きる。(例えば第二次世界大戦中の連合国を考えてみればいい。ファシズムの脅威と戦おうとした連合国は、戦時下にアメリカは国内の日系人の強制収容を行ったし、イギリスは1939年国家緊急権法を成立させてイギリス国民の主権を制限した。ファシズムと戦う中で、アメリカ、イギリスは、ファシズムさながらの「民主主義国家」になった。)先ほど現代の民主主義が30年前や15年前よりさらに一段沈み込んだと主張した根拠はこのあたりにある。

ラジオの双方向性

以上のようなSNSとTVの過度な双方向性の議論を踏まえ、ラジオの双方向性について取り上げたい。ここではyoutubeライブやニコニコ生放送のようにリアルタイムで視聴者・聴取者からの反応が来るようなことがない、一方的な音声通信全般のことを指すことにする。地上波のラジオもネットラジオもラジオアプリを使った配信も全てラジオとして扱う。この定義で行くと、radiotalkやspoon等のラジオアプリ内でLive機能を用いて行う配信は、ツイキャス同様ラジオではなくなる。(もっとも生放送のラジオで、ハッシュタグのついたツイートを拾ってコメントをしながら番組を勧めるパーソナリティもいるのでこれ自体怪しい線引きだが。)

ラジオの聴取者は一般にどのようにして番組や配信内容と関係を持つのだろうか。リスナーは、聞き専リスナーとおたよりを出すリスナーとに大別できる。聞き専リスナーは頻度はどうあれ、基本的にラジオを聴いているだけ。おたよりを出すリスナーはというと、こちらもおたよりを出してラジオを聴いているだけ。公開録音やリスナー参加型のイベントでもない限り、双方向性が作用するのは基本的におたよりという形だけだ。コミュニケーションの方法もおたよりを送るか、番組を聴くかの二つだけしかない。稀にいるスポンサーを見つけて引っ張ってくるような、特例的な人物を別にすると、リスナーの採りうる行動は、基本的には、何かを郵便かメールかFAXで送る、番組を聴く、の二つ(それぞれの否定、送らない、聴かないの組み合わせを考慮に入れると四つ)しか設定されていない。勿論おたよりの内容は、番組によってもコーナーによっても多様だろうが、その後に起こる評価まで考慮に入れるとtwitterのようなSNSに比べてはるかに単純なつくりをしている。

ラジオ番組宛てに送られてきたおたよりは、採用されて読まれるか、ボツになって読まれないかの二通りに選別される。そこでは採用されたおたより同士、ボツになったおたより同士の間での序列は基本的に存在しないものと考えていい。例えば、ある日の30分の地上波の番組で、7通のおたよりが読まれたとする。7通のおたよりに対して、点数をつけ、1位から7位までどの順に並んでいるかを比較考量することはできないし、基本的にそんなことをしようとするリスナーはいないだろう。仮に過去の採用数や初投稿か否かなどのデータから、その日の採用の点数をはじき出すような奇特なリスナーがいたとしても、他のリスナーはその点数を明示的に知ることはないし、興味を示さないだろう。みな、採用されることを目指しておたよりを送っているのであり、高得点を取ろうとしておたよりを送っているのではない。大喜利ゲームではあっても、Twitterのように「高得点を狙う大喜利ゲーム」ではない。

勿論「この人はいつものように/二週に一度ぐらいは、読まれているな」と感じる人は番組によっては存在する(同じ人が二度読まれていることに気づかないくらい毎週のように採用されるメンツが総入れ替えになる番組もある)。しかし裏を返せば、それぐらい大雑把な評価しか働いていないということだ。年間を通して誰が一番多くの採用を勝ち取っているのか、確認している人はあまりいないだろうし、仮にいたとしても「リスナー皆が共有するような得点」として現れるわけではない。

しかもリスナー同士はお互いがどのくらいの頻度でおたよりを送っているのかを知らない。勿論、その人が採用されている回数よりは多いだろうという予想はつくが、正確な回数を知ることはない。また採用/ボツは放送の頻度と同じ頻度(毎週放送の番組なら週に一回)でしか行われず、誰かが急激に点数を上げたり、日夜を問わず評価が行われるということはない。週一回の番組ならせいぜい年に52回か53回採用される程度の話でしかない。そして10回も20回も連続で採用され続けるリスナーはそうそういない。

加えてリスナー同士で相互評価が行われることはないか、あるいはあったとしても限定的なものである。SNSやブログでは、コメント欄やリプライを通じて、発信者に対する意見表明を行うことができる。肯定的な意見や共感を書き込むこともできるし、誹謗中傷の言葉を皆で一斉に並べて炎上させることもできる。他方ラジオではそうしたやりとりが成立する可能性は低い。確かにラジオの放送に合わせてtwitterで実況をし、相互フォロー状態にある人同士が、互いのおたより採用の度に祝言を述べ合っていたのを目にしたことがあるが、採用されたおたよりの数に比して、そうしたやりとりはかなり少ない。また、twitterでリクエスト採用がされないことに対して、不満を述べているツイートを目にしたことがある。しかしそうした投稿の数は少ないし、他の人からそうした投稿に、好意的な反応が寄せられることもあまりない。リスナー同士は知り合いでないことの方が多いし、そもそもラジオを聴取する上で、知り合いである必要はない。おたよりを採用するのはリスナーではなく、あくまでパーソナリティだ。前週、前々週の放送で読まれたおたよりや起こったことに対する反応のおたよりが寄せられることはあるが、それを読むのか否か、またどのように読むのかを決定するのもパーソナリティなのだ。

更に、おたよりの受理から採用までのプロセスは、番組によっても、コーナーによっても変わってくる。局の人間が絞り込みを行ってからパーソナリティが選ぶ場合もあれば、すべてのおたよりにパーソナリティが目を通して、その中から選ばれている場合もある。またふつおた(普通のおたより)の場合は、一度に読み上げられる採用者は一名だが(複数のリスナーの手紙を合体させて、一人分として読み上げることは少ない)、はがき、メール、FAXでリスナーから求められた楽曲を流すリクエスト番組の場合は、ある曲を流して採用する場合、複数のリスナーの名前が挙がることがままある。そうなると、点数をつけようにも統一の評価基準を見出すことは難しくなる。

以上のように、ラジオにおける双方向性は、SNSに比べて低く、リスナーは初めから適度に分断され、相互評価が成り立たないようになっている。よって特定の「石投げ」が突出する可能性も他のメディアに比べると低い。勿論リスナーの攻撃性やパーソナリティの差別的発言がない/問題にならないと言っているわけではない。

例えば、林原さんが述懐しているところによると、阪神淡路大震災翌週のハートフルステーションの放送後、番組に対して苦情のおたよりが寄せられた。しかし、当の被災地、神戸の人たちからは後々感謝のおたよりが来て、被災地から離れた大阪、京都の人が苦情のおたよりを送ってきていたということに気づいたそうだ。そのうえで林原さんが言うには「でもなんだろ、どっちも愛だということをすごく学んだというか、なんかその、何さんわかんないくせに、とかそういうことじゃなくて。思うがゆえに、神戸を思うがゆえに、そういう風に言ってきたというその気持ちもすごい大事だと思ったし。だから物事が何か起こった時に、判断するときに、右からも左からも上からも下からも、本当に何が正しいというんじゃなくて、自分の立場は今どこで、どういうプラスもどういうマイナスも考えた上でちゃんと発言しようっていうのを、本当にそのラジオパーソナリティとして話すっていう時の力みたいなものをもらった気がしますね」(青春ラジメニア2015年1月17日放送より)とのこと。林原さんはそれが「愛」だと言及しているが、立場が違う人間に対して、「愛」ゆえに攻撃性が発露してしまう例ととらえられる。

また「岡村隆史のオールナイトニッポン」2020年4月23日の放送でのセックスワーカーに対する言及がtwitter上で炎上し、翌週4月30日の放送で謝罪したということがあった。生活上迫られてセックスワークに短期間従事する女性を目当てに風俗に行くという行動の是非が問題になったと把握している。生活苦からセックスワークに従事せざるを得ない人がいるという構造への無理解に基づく発言を巡って、パーソナリティの降板を要求する運動がSNSで起きる、といった一件は、ラジオとtwitterとが突如強固に接続され、ラジオに影響を与えた例である。

終わりに

今回、ラジオは、視覚的情報の氾濫から比較的自由であり、SNSとTVとの不幸な結婚(相互を腐敗させる結婚)から比較的自由である。それゆえにラジオは復権しつつある、という話をした。しかし今回の議論は、ここ数十年のラジオ側の変容について考慮できていないし、ラジオを理想的なものとして描きすぎている感がある。ラジオ側にも収益体制の変化・放送形態の変化があり、1990年代のラジオと現下のラジオとを同列に論じることには無理がある。とりわけ地上波のラジオの持続可能性には疑問符が立っているのだ。視覚的情報の氾濫やテレビワイドショー文化とその劣化コピーとの融合体と、交わりながらも違う路線を描き出すものとしてラジオを位置付けるためには、ラジオの変容、地上波ラジオの持続可能性について考えなければならない。こうした話に関しては回をあらためて記していく。


参考文献・サイト(ただし文中でリンクを貼って示したサイトの再度の掲示は省略する)

東浩紀(2011年)『一般意志2.0』講談社                    宇野常寛(2020年)『遅いインターネット』幻冬舎             村上謙三久(2019年)『声優ラジオ”愛”史』辰巳出版

総務省令和元年版情報通信白書第1部第4節「誰が炎上に加わっているのか」https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r01/html/nd114310.html







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