見出し画像

聴覚情報処理障害で得た経験から思うこと

816回目です。φです。

色々なものを読んだり見たりすると、やっぱり聴覚情報処理障害って難しいなぁと思います。自分自身が感じる困難ももちろんだけど、説明もまた難しい。

”多くの人が当たり前にできていること”とは異なるのだ、というと、そんなわけがないと言われたり、意味が分からないと言われたり。

”当たり前”というものほど、覆す、変えることは難しい。そうではない人もいる、ということ自体を認められることすら難しい。

どうしても人間は固定概念があって、”こうである”というものはそのまま維持される。どの状況であっても、その固まったものが根本に潜んでいたり。取り除きましょう、はい終わり、というわけにはいかないようです。

「そうなんだ」と受け入れられて、じゃあ新しい対応をしましょうね、になることって極めて稀です。新しい対応の中でももちろん色々な難しさに出会うけれど、その都度「これは〇〇なんだ。なるほど」みたいに修正してもらえるのがベター、だと私は思う。

お互いに学んでいく必要があるのでしょう。きっと聴覚情報処理障害の人も「自分はこれが難しいんだ」と知る機会になるし、「伝えるにはこうすればいいのか」と学ぶ機会にもなる。

伝えられた人も「これが原因だったのか」と知る機会になるし、「周りの人にはこうやって伝えよう」と次に生かせることを学ぶ機会にもなる。

理解する、そして学び続ける姿勢が何よりも求められているのかもしれませんね。

きっと聴覚情報処理障害だけではなくて、他の障がいや困難を持つ人との関わりにおいてもそうなのでしょう。お互いを尊敬し、理解しようと歩み寄り、ひとつひとつ学んでいく。一方的じゃなくて相互的にね。

人間は人間です。でも中身は違う。臓器とかは大体一緒だけど、目に見えないもの、例えばパーソナリティーだとか、気質だとか、思考の癖だとか。そういったものは全く異なります。似ているところはあるけれど。

しかも、目に見えないもので感覚的なものも違う。見え方、聴こえ方とかね。「自分がこうだから、大多数がこうだから、絶対こうだ」というわけにはいかないのです。

聴覚情報処理障害は理解が広まってほしい。けれど、それよりも”ひとりひとりが訴える困難をひとつひとつ解決していくこと”に注目が集まってほしい。「聴覚情報処理障害ね、○○をやっておけばいいんでしょ」というものじゃなくてね。

個人を見る、と言うのでしょうか。

そうやって、自分らしさが否定されず、認められる社会になっていってほしいものです。自分の困難と向かい合うとき、私はそう思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?