「これで生きるしかない」への反発。
524回目です。φです。
昨晩は考えることがたくさんで、夜もずっと考えていたみたいで。ううむ、と思っていると外から新聞配達の方のバイクの音が。
どうやら一晩中考えていたようです。「そのうち寝るよね!」なーんて自分の脳を軽視していたのが悪かったようです。やるな、私の脳…!
夜は考えることを破棄することをおすすめします。私が言っても説得力ないけどね(笑)
しかしながら、本日は素敵な日でした。反対の意味で。
朝からずっと、母親の愚痴。解決法を提案しても愚痴。それを言っても何も進まないよね?なことが、まぁ…5時間くらいかなぁ…。
そして外出の予定も2時間遅れ、まさかの私の目的はスルーされました。えええ…ドライブスルー並みにスルーしたね…?
そんなこんなで、結局荷物持ちになっただけでしたね。ちなみに自分の荷物なんて持つ気がないらしく、自分がひとりで買い物に行ったらガレージに私を呼び付け「荷物運んで!」です。
しかしながら、私は拒否していません。なぜって、私が突然失踪したとき彼女はどうしようもなくなるからです。人生に仕返しマスはあるもの。人生ゲームだってちゃんと作られているのだから。
拒否した結果、重かった荷物持ってくれないなんてひどすぎる、こんなに自分は頑張らないといけなかったのに、一生懸命運んだのに、と文句言われたこともあったのですが。私の荷物、無いんだけどね!
そういった人生を歩んだ結果、私自身も色々とずれていることがあると思う。
極例は、友人との関係だと思う。私は友人と遊んだのは小学生から中学1年生の間だけ、だと思う。小学生の頃は家で遊んだ。お互いの親が知った、親の目の届く範囲内の環境で。
中学生になって、学校帰りにちょっと寄り道した。ゲームセンターに行ったり、カフェに行ったり。
一度だけ、大学でとても気の合う先輩と夜に会いました。夜の海を見に行って、色々と夢について話したものです。あの先輩元気にしているかなぁ。まぁ生きていることでしょう!(笑)
その先輩に会うとき、まさかの「連れていく」と言われ、車で行くことになった。帰りは自分でバスで帰った。21時くらいになっていて、親からの電話は10件以上入っていて、メールもそれ以上来ていた。もうホラーですよ。帰ると待ち受けていた親。その後諸々ありました。
その記憶が記憶の底に沈めても時々浮上してきて、私は「うげぇ」となる。楽しかった一日は、最悪の締めくくりで記憶に残りました。
その大学でのことがあってから、何をするにも送迎。誰と会うのか、何時に終わるのか、その人とはどんな関係か、が行く前の質問。何を話したのか、その人の外見はどんなものか、いつ知り合ったのか、何をしたのか、が帰り道での質問。
質問なんて言葉じゃ表せないと思う。尋問、の方が正しいかなぁ。はぐらかすと何度も聞き返される。
まぁそんな感じに、「家族以外」と関係を作ってきた。今でこそZOOMとかかTwitterで連絡できて、交流を楽しんでいるけれど、現実ではそんな感じです。何をするにも母親が絡む。
「関係ないでしょ」は言ったことがありますが、まぁ大変でした。関係ないんだけどね、ほんと。
私にとって母親がどういう友人関係を築こうが興味はない。それを伝えても自分の友人の話を毎日1時間くらいは話に来る。
そんな残念な状態で育ちまして、私は友人関係って何だろう、と自分で考えたとき非常に戸惑う。そして友人と何をすればいいのかすら知らない。
大学の頃からの大切な友人とは、ぶらりと食事に行って、話して、やりたくなったことをして。じゃあまたいつか会いましょう、を繰り返しています。年に1回くらい。くっつきすぎなくて、ゆるくて、それでもお互いを知っていて。ほんと、素敵な友人に出会えたなぁと思う。
Twitterを通して、主に馬関係で知り合えた方とも1年に1回のペースで会って、ZOOMでお話して。いつも彼女の明るさには元気をもらっています。素敵な方です。
そういう付き合いを、私は本当に尊いものだと思っています。頻度は決して多くない。けれど、本当に特別な時間をくれる。
しかしながら、そのふたりに会うにも母親が介入する。送迎は絶対すると言うし、どんな話をしたのか、どこに行ったのか、の質問の嵐。
母親と子どもの距離って、こんなに0に近くないといけないのだろうか。私は思います。
のびのびできる空間。自分が家族から離れて、自分の好きなように人と関係を作れる。それがほしかったなぁ。そう思っていました。それがついぞ爆発したのが「そうだフィンランドに行こう☆」でした(笑)
まぁのびのび羽ばたいてきた。そこで分かった、自由なんて自分でつかんでしまえばいいって。自分が「これで生きるしかない」と思うことなんて、ひっくり返そうと思えばひっくり返せる。その諦めに似た感情に従ってしまったら、ずっと「これで生きるしかない」の環境に生きることになると思う。
歪んでしまったものは直せないと私は思います。きっと私は修正を試みるけど、それは修正されたものであって、歪んでいた部分を無理やり戻したようなものになると思う。ぎくしゃくするかもしれないし、私にストレスがかかるかもしれない。そうしたら自分に合わせればいい、と思う。無理に「ある程度の人がやっていること」をしなくていい。取り入れて、参考にして、試してみる。「こんな感じなんだぁ」と知る。それが大切なのだと思う。
私自身もまだまだ知らないことばかりです。友人関係だって、何をするんだろう、と思うことばかりです。友人が少ないからめちゃくちゃ悩むことはないけどね!(笑)
毎日溜まる諸々の感情をごみ箱にダンクシュートするために、「ここから脱出してやる!」を私の心の真ん中に置く。「幸せになってやるんだからなぁー!」を事あるごとに心の中で叫ぶ。表面は無表情でもいいんですよ。私は表情筋が死んだ顔かチベットスナギツネフェイスですよ。
現在なかなか昨年のように逃亡はできない。けれど、私は色々と企んでいます。とりあえずやってみる。もう「あらら最悪かもね☆」な位置にいるのだから、これ以上下がってもそこまで変わりません。ちょっと土にめり込むだけで。砂風呂と思えばかわいいものです(笑)
「これで生きるしかない」、そう思ったらそこで生きるしかないと私は思います。妥協は大切かもしれない、けれど妥協と諦めは違う。自分が少しでも幸せになれるには、を求めてほしいな、と思います。幸せになっちゃいけない人っていないもの。
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