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差別はなぜ起こる?

 319回目です。φです。

 今日は3月11日。3.11です。東日本大震災。

 今年で9年目。乗り越えられた方も、未だに心が追い付かない方もいらっしゃるかと思います。多くの人が悲しみ、多くを失いました。

 悲しい記憶を持ち続けることは大変です。けれど、忘れてはいけない記憶だと思います。

 9年前の今日、日常を奪われてしまった人、命以外すべてを奪われてしまった人、彼らが今を生きていることを私は誇りに思います。辛いことがあったと思います。けれど、生きてくださっていることが、本当に尊いことだと思います。

 そして、旅立ってしまった人の平穏を祈ります。


 さて、今日私は外出したのですが、結構車が走っていたり、お店に親子や子どもたちがいたり、と賑やかな様子を見ました~嬉しい。自粛自粛、は大切かもしれないけれど、過度の自粛は経済回らなくなってしまうし、別の面で大変なことになります。

 私は子どもの声の高さは苦手なのですが、子どもたちが楽しそうにしているのを見るとふふっと嬉しくなりますね~元気が一番!健やかにお育ち!

 市場に行くと、多くの方が花を買っていました。切り花、花束、フラワーアレンジメント…どれもこれも素敵でした!私もダリアを買ったので、室内が華やかになりそうです。

 日頃伝えたいことがあるけれど伝えられない方、どうぞお花を買って渡してみてください。口実は「安かったし、ちょっとしたお礼」「経済回すついでにお礼」とかでも気持ちは伝わるはず!(笑)

 きっかけって大事です。ぜひぜひやってみてください~。

 今日は、世界中からニュースとして話題に上がっている差別について私なりに考えていこうと思います。

 差別撤廃を謳っているのに、どうしてなくならないか。なぜ少しずつお互いを認め合っていた状態が崩れたのか。


 さて、最初に断っておきますが、これは私の考えです。人によっては納得したり、共感したりするかも。反対に、人によっては不快感を感じるかもしれないし、異論を唱えたくなるかも。

 どちらであれ、または中立であれ、私は構いません。あくまで私の意見。私は特定の人を傷つけないようには注意しますが、それ以外は持論を展開します。

 前提として書いたので、「私には信条があってそれ以外は読みたくない!」という方はおすすめしません読むの。そして苦情は私受け付けません。持論だからね!注意喚起もしたしね!

 ではでは私が考えたことを書いていこうと思います。私、ちゃんと言ったからね!「ご注意あれ」って。

 世界でなぜ差別が始まったか。中国人を中心に、感染者が多い地域として日本が、韓国が、差別の対象とされています。アジア以外の地域では「アジア=悪」という状況です。つまり、アジア人が対象。

 確かに、発症者が多い、そして感染が進行している地域ではあります。少しずつ収まってはいるけれど、それでも依然として治療対象者は存在し、増加し、警戒を続けています。

 ダイアモンド・プリンセス号からの帰国者や中国からの帰国者によって広まった、この悲劇。はっきりとしたものは分かっていないことが多い。もしかしたらどこかの国は知っているかもしれない。けれど、それすら不明確です。どれが正しくて、どれが嘘なのか、正しくないのか。

 今はアジアだけでなく、欧米諸国に広まっています。イタリアは悲惨な状況だと耳にします。アメリカも手に負えないかもしれない、というニュースも。多くの国が全力を持って対策を練り、治療薬を生み出そうと日々研究を重ね、国民を守る術を試行錯誤しています。

 中国が発信源ということ以外は不明確。そういう状況です。

 しかしながら、この誰もが安心できる情報を持たない状況で、差別は始まっています。「安心できない状況」ということは人類平等なのにね。

 目に見えない脅威に対して、正常な判断ができなくなっている。どうにかして自分を守ろうと攻撃的になっている。私はそう思います。

 このいつ終わるか分からない、治療薬すらない、対策も特別で完全な対策はない、という防ぎようがない、そして脅威にさらされている状況に置いて、やはり人間は人間なのだと思い知らされた気がします。時代が変わっても、科学が発達しても、人権が叫ばれても。

 歴史上で、人間は人間を差別してきました。してきました、というよりも今も尚続いているのだけれど。歴史上ひどかったのは、ユダヤ人に対する差別でしょうか。ウイグル人に対する差別でしょうか。私は順位をつけることはできません。差別があるという事実自体、最悪なものだと思っています。

 差別の歴史を歩み、今「人類は平等だ」という言葉を掲げています。どこかで差別があれば、SNSなどを通じて世界中が知り、それに賛同する。もちろん、差別を支持する人もいるけれど。

 しかし今、あらゆる場所で差別が始まってしまった。あんなに「差別は悪い」という風潮がありながらも。

 危機的状況なのだと思う。今の状況は。理性で抑えていたものが悪くも解放されてしまった。私はそう思う。

 そして、差別が起こらない条件として、「自分の身の安全が確保されている状況」なのだと感じました。「すべてが安定している状況」も条件として含まれるだろう。

 したがって、不安要素、不穏要素。自分に関わる負のものがあれば、人は理性なんて捨てるのだと思う。人によるとは思うけれど。

 本当に人によるのだと思う。けれど、メディアが取り上げるほどの人数が、割合が、理性を捨てるのだと私は考える。極めて少数で、話題にも上がらない程度のレベルであれば、今各国から発信されるニュースはないだろう。数と話題性、そして問題性があるからこそ発信される。ニュースとはそういうものだと思う。

 要は、心の余裕かもしれない。余裕があるからこそ、人を人として認めて許せる。接することができる。自分の感情的な思いを抑制することができる。理性的で模範的な人間として在れる。

 自分に余裕がないと、何事も自分が一番です。優先順位においてトップを独占。自分が満たされない以上は、他者への自分以上の温情をかけることは難しい。

 だからこそ、自分以外を自分よりも優先した人たちは、今でもその名前を歴史に残し、人の目標として記憶され、偉大なる人間として後世に語り継がれる。

 逆に言うと、そうではない人間が多いということでもあると私は思う。多くの人の目標になるには、多くの人ができないことをする人である必要がある。

 私は、100年後でも200年後でも、地球が滅びずに人類がいるのなら、マザー・テレサやガンジーは永遠に人類の博愛の象徴として存在すると思う。目標に掲げ続けて、同時にいつまでも差別は続くだろうと思う。悲しいけれどね。

 差別は起こる。なぜなら人は自分を優先するからだ。自分の安定が失われる状況に直面することがあるからだ。理性があるとはいえ、動物の一種だからだ。

 私はそう思います。私は差別なんてなくなってほしい。差別という言葉が、遠く昔の言葉になってほしい。肌の色、髪の色、国籍、思想、宗教、あらゆるものをお互いが認められる社会と世界がほしい。すべての人は個人として認められる世界がほしい。

 差別をしても、得るものはありません。自己満足か、自己防衛に成功したという空虚なものしかありません。私はそう思うけれど。

 この誰もが明日に怯える今、人間は人間なんだと改めて理解した。この状況を乗り切った先に、人類は進歩するのでしょうか。それともまた同じ道を歩むのでしょうか。

 前者であってほしいなぁ。差別で良い方向に向かうものはないもの。

 世界中の人が、世界中の人を愛せる日が来ますように。きっと、言葉以上に難しいのだろうなぁ。

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