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環境と自分の意志。

 537回目です。φです。

 さて、本日もまた家逃亡計画を進めることが発生しました。ほぼ毎日発生しているのだけど(笑)

 最近、「親切さをむやみやたらに提供しなくていい」「自分にとって大切な人と関わることがよい」「家族と言っても、傷つけられるのなら一緒にいなくていい」、そういった言葉を目にします。私はこれらの言葉にものすごーく首を縦に振るし、自分の周りにも悩んでいる人がいたらこの言葉を渡すと思う。

 しかしながら現実問題上手くいかないこともある。まぁさくっと縁を切ってしまえば、一度波に乗れば、上手くいくのだろうと思う。だからこそ今私は波を探して浜辺でお散歩しています。浜辺だけど。海からちょっと遠いけど!

 色々な形がある、家族と言う存在。人数だって違うし、どう構成されているかも違う。独自のルールだってあるし、ルールがない家だってあるだろうと思う。基準も異なって、まるで外国のように異なることもあるだろう。反対に、似ていることもあれば、そっくりということだってあるだろう。

 家族の正解もない。不正解もない。誰かにとっては正解だとしても、別の誰かにとっては不正解かもしれない。同じ家族の人間であっても、正解に思う人もいれば不正解に思う人も、同じ空間に存在するのだと私は思う。

 まぁ、正解不正解の概念すら適切ではないのだと思う。良い悪いもないのかもしれない。好みはあるかもしれないけれど。

 家族ぐるみの付き合いをしているから、自分は多くの家族を知っている。そう思うかもしれない。私は以前までそう思っていました。

 しかしながら、家族で付き合うということは、ある程度の似通った価値観の家族であるという前提があると私は思う。親同士、全くもって価値観が異なるとはいまいち考えられない。

 まぁ「まったく違う考えの持ち主だ!遊びましょー!」ということもないこともない…かな…?どうでしょう。

 そういったことがない限り、人間似通った価値観の人と一緒にいたいものです。集団は特定の目的がなければ、価値観に共通点がある。個人的な意見だけどね。

 だから家族ぐるみの付き合いをしていて、自分の家族とは別の家族を知っていたとしても、それは「まったく異なる家族」とは言い難い。共通点は存在して、何かしらの基準で分けたとき同じ集団に属するのだと思う。

 だからこそ、家族というものはよく分からないままに生み出されて、それが基準になって。そうやって続いていくのだと思う。

 親戚とかも基本的には似た環境だしね。多分。

 家族って難しいなぁ。嫌なことはもだもだと考えるのではなくて、割り切って「家族と言えど別の存在。知りません。」を通すことだって大切なのだと私は思います。


 さて、そんなことを思った本日の出来事。なんだこれ、とその環境に生きていても理不尽さを感じる家族とはなんなのでしょうね。

 朝から祖父母のことを母親から愚痴られまして…確実に機嫌悪く帰ってくるなぁ、空腹でさらに文句を聴かされるんだろうなぁと思って、夕食作りました。5品。洗濯物等の家事もやっておいた。すごいでしょ私。

 予想通りに遅く帰ってきて、開口一番に愚痴られた。食事ありがとう、と早口に言われた後、ちょっとスープの具を刺したかと思うと「固い」、そしてそれから無言で圧力鍋で調理されまして。次は「これ何?」、とか。最初の一言以外、基本的に文句でした。まぁ作ったときは基本的にそんな感じ。

 あ、私の腕が疑われそうですが、自分で言うのもあれですが結構作るのうまいよ私!(笑)

 そして続く愚痴。怒鳴るくらいの声で聴かされ続けて、少し静かになったタイミングで私はさらっと抜け出した。おそらく寝る前になって部屋に来て、ベッドで寝ている私に向かって気が済むまで言うんだろうなぁ…なんなんでしょうね。

 …さて、こんな日常。さっさと逃亡しようと企んでいます。コロナで云々が終わったらさーて逃亡だー!

 人間、自分に合わない環境にいたら、自分が生きていきづらいと思う環境にいたら、段々と心が死んでいきます。ネガティブになってしまったら、そこから元通りになることは難しい。元に戻ることなんてできないのかもってくらい。

 自分が合わない、と思うのであれば、別の場所を求める方が良いと思う。もしかしたら別の場所もまた合わないのかもしれない、でも合う環境はどこかには存在する。世界は広いのですから!

 この環境へのナニコレで私の空虚へのボクシングによって鍛えられた腕があるので、私はどこでも生きていけそうです。武器を持っておくこと、大事(笑)

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