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心に引っかき傷。

 471回目です。φです。

 今日は突然大雨が降ったと思えば、次の瞬間には普通に蒸れた30℃越えのお天気になったり。それが2~3回繰り返されていた不思議な天気。

 雨がコロナ流してくれないかな…とか不可能なことすら考えていました。自然現象には自然現象で対抗して、ウイルスは負けてほしい。そんなバトルないかなぁ…。

 さて、今日はTwitterで見た「子どもの頃に選ばせてもらえなかったことがずっと引っかかって、今でも引き摺っている」ということに、私も思うところがあったので書こうと思う。子どもの頃から繰り返し言われたことって、なんだかずっと心に引っかかるよね、って話。


 ひとつひとつ挙げていったら、おそらく数えきれないほどになると思う。ちょっと考えるだけでもたっくさんあるものー(笑)

 例えば、ものを買うときのこととか。「本当にそれでいいの?」「後で嫌って言っても知らないから」「後悔しないの?」「お母さんはこっちの方がいいと思うけど」「こっちにしなくていいの?」…と、ひとつのものを買うのにもずっとその質疑応答。

 私は小さい頃から「決めた、もう意思は変わらない!」という頑固な子だったので、後で後悔することってありませんでした。一度これと言ったら変えなかったし。決めた時点で、「私が選ばなかった方」は価値がなくなっていたんですよね。わぉ極端。

 しかしながら、母親は何度でも問う。結局は母親の選ぶ方を選択しなければ、追々「あっちの方が良かったのに」と私がいくら満足していても言われる。ちょっと使いにくいけど、とか言おうものなら「ほらお母さんが正しかった!」となるんですよねぇ。未だに、なので鮮明に思い出せます(笑)

 そんなこんなな記憶があるため、そして今でも更新されるため、母親からの「どっちがいい?」に対しては「両方いらない」か「どっちでもいい」が無難だと悟った。まぁそれを言ったところで「ちゃんと自分で決めて」と言われるのですけれども。

 私にとって、母親が見ている前で何かを選択することは「面倒なことになる」という気持ちが真っ先に登場する。ちょっとしたトラウマなのかもしれない。

 いわゆる誘導尋問の方が、まだ質が良いのだと私は思う。選択後にやってくるのは母親の選ばなかったものを選択した「私」への否定だ。

 それが物に対してなら、その物自体がなくなってしまったら終わり。けれども、物事へも同じだったりするのが、非常に厄介。

 「あのときお母さんが言った○○をしておけばよかったのに」とかね。人生にはifのルートなんてないのだから、それが本当かどうかは分からない。それがなかった場合を誰も証明できないのだから。…と、言っても「でもあのときお母さんの言ったとおりにしておけば違ったのに」になるという…。

 最善を選ばせたいのかもしれない。けれども、それはコントロールと紙一重だと私は思う。まぁ、子どもの意思を聞かずにコントロールする時点で、本人である子どもにとって良いかどうかの視点には立っていないような…、と今では思う。

 他にも、繰り返し言われることで当時は誰かを信じることができなかった言葉がある。「血は水よりも濃い、親・家族以上に子どもを思いやれる人はいない。他人なんてお金でつながっているようなもの。」。

 友達ができて、友達を優先したら親から言われたのが最初だったような。小学生だったような…小学生に言うかなぁ。おそらく私は小学生の頃から繰り返しこの言葉を浴びてきた。他人は他人。親より自分を思ってくれはしない存在だ、って。

 そういうことを日常的に言われてきて、基本的には友達や学校の知り合いとの時間よりも、家族との時間を優先させられた。「お母さんがひとりになるじゃない。ひとりにさせるつもり?」、それがいつもの会話だった。友達の誘いには断らないといけなかった。

 数回、「○○の日は友達と出かけるから」と言って唐突に予定を入れたことがある。そうすると、「じゃあ送り迎えするから!」となって、その時間を超えたら母親が登場。友達に直接母親は会って、帰りの車の中でその友達の容姿の評定会が始まる。基本的にはネガティブな意見で構成されている、ほぼコケにするような内容だけどさ。

 別の日にまた予定を入れて、「遊びに行ってくる」と伝えると、「あの不細工な子?」と聞く。うん、普通に失礼だよね!

 私は友達には「ありの~ままの~♪」私で接しているので、家族とは態度が違う。自分がそのままで話せる人との時間が、一瞬で崩される。友達も親が出てくるとは思っていないし、何とも言えない空気になる。そうやって、私は友達付き合いができない時代が続いた。

 そんなこんなで遊ばなくなって、「もうあの子とは遊ばないの?」と聞かれて。「忙しいしね」とでも言ってはぐらかすと、「ほら、友達ってそんなものだから。じゃあ一緒に〇〇しに行こう!」で嬉しそうにする。

 私にとっては、水より濃い血なんて呪いでしょ、という感じである。よっぽど水の方が良い。私が会ってきた家族以外の人の方が、家族よりも良いと思う。自分で選ぶことができるし、自分の望んだ人とかかわりを持てる。

 そんな依存するような関係の濃いものよりも、あっさりで時々優しくなくて、切れてしまったらなくなってしまう縁の方がいいじゃない。家族と共有しない世界を持つようになって、私はそう思う。

 私の中の「ずっと引っかかって今も引き摺っているもの」の中の二大巨頭を書いただけで結構な文章量になってしまいましたねー(笑)

 Twitterでは、誰かの本音と思わしき言葉をたくさん見ることができる。まぁ実際にはどうか判定できないけれど、それを書くということはある程度の似た心情を持っているか、何かしらのことを思うからこそ書くのだと思う。単純に炎上したいとか、評価されたいとか、そういったものもあるだろうけれども。

 一応そのツイートが正しいという前提にすると、一定数は家族で悩んで、親との関係に悩んで、それでも生きているんだなぁと感じる。中には一生許せない人もいるだろうし、一生関わりを持ちたくないと思っている人もいるだろうし、どうでもいいと思う人、忘れようとする人、嫌でも関わっていかないといけない人。たくさんの選択があるのだと思う。

 少しでもその心の引っ掛かりや傷がなくなって、誰もが自分の幸せを追えたらいいのにな、と私は思う。みんな傷くらい持っているんだ、傷があって当然だ!じゃなくてさ。

 幸せを願うことは簡単だけど、それを手に入れることって難しい。自分ひとりじゃどうしようもないときだってある。

 人間色々あって難しいけれど、自分の幸せを優先して行動してほしいなぁ。自分が幸せになったら、誰かの幸せも願えるようになると私は思います。

 最後に余談ですが、私は捨てられた動物が現在幸せになっているよ、という写真や報告などでめちゃくちゃ癒されるし自分も幸せになるんだぁぁぁ!と意気込めるので、気力がなくなった方はぜひ犬猫馬諸々のストーリーを見たりしてください。Twitterでも結構あります。めちゃくちゃ癒されますおすすめー!

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