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#BlackLivesMatterから考えたこと。

 401回目です。φです。

 もう6月ですね。あと6か月くらい待てばクリスマスです!気が早いですね私!(笑)

 私の「6月までにやりたいリスト」は白紙になりましたが、そこに新しい目標を心の中で書いていたのでそれはいくつか達成。主に語学中心に勉強のこと。

 仕事、見つけたかったけれども、まぁ時間が悪かった。私は準備のために与えられた時間だと解釈して考えることにしました。

 きっと仕事を決めて、withコロナの暮らしには順応できなかったかもしれないし。働いて数か月で「はい、仕事のやり方変えます!」は私にはダメージが大きくなっただろうと思う。社会のシステムが変わって、ある程度落ち着いてから、「その後」も働き方の変わらない状態になったときに仕事探しをしよう。

 一定の仕事はないけれどね!誰もが「これからはこのやり方が変わるかも」と不安に思う中、私は対応できるかというと…難しいだろうなぁ。「やっと慣れたのに!」ってなりそう。暴れそう私(笑)

 どうなるんだろうね、今後。今までの社会の膿を出し切って、クリーンで快適なものになればいいけれど。今は願うしかできませんね。

 生活に困っている方はたくさんいらっしゃると思う。その方たちが希望を失ってしまうことがないことだけを今は祈ります。

 さてさて、今日はアメリカで大変なことになっている、「#BlackLivesMatter」から「差別」について書こうと思います。

 

 私は障がいを持っています。この時点で、かなりハンディキャップがあります。

 加えて、女性です。男女平等が社会に浸透しているか否か、の調査の日本の結果は多くの方がご存じかと。なので、性別もまたハンディキャップとも言えるでしょう。

 社会的な立場で言うと、かなり「弱い」立場だと思う。主観的に見て「私は差別されています!」と言うわけじゃなくて、客観的に見て「まぁ立場弱いよね」と思う。

 そんな私から日本社会を見ると、優位な立場の人は満足しているでしょうし、それに違和感を覚えにくいと思います。そりゃもちろん、「働き過ぎて嫌だ」とかあるとは思います。どこの職場だって〇〇ハラスメントはあるし、嫌なことを言う人はいるだろうし、相性が合わない人もいるでしょう。

 しかしながら、優位というものは高い壁があると私は思う。優位の人が想像できないような世界だって、その壁の下にはあるのです。

 私の父親はいわゆる優位な立場の人間だと思う。保証された役職という身分があって、男性で、身体的な問題は持っていません。定年退職するまで働く場所があります。

 もうひとり、彼と似たような立場の人がいます。彼らの話を聞くと、時々自分は別の制度の国かどこかに生きているのかと思う。ほんと。考え方とかも。

 まぁ同じ日本ですけどね!びっくりするくらい待遇が違うというか、生きている場所が違うというか。

 「それはその立場があるから、そう見えるんだ」と思うときがたくさん。最近あった話題だと「障がい者の雇用は進んでいる。努力次第で働く場所なんてたくさんある。」ということ。確かに進んでいるいうニュースはありますし、国は進めているようです。

 …ついこの間まで不正してたけどね!「ようです」しか私は書けないし、断言はしません。少なくとも、私は雇用が開かれたとは欠片も思っていませんし感じません。相変わらずです。

 どんなにアピールしても、勤勉さが評価されても、能力を知ってもらえても、「病気の保証ができない」の一言で終わるのです。あとひとつの「不可能なこと」を追及されたらほぼ終了です。電話とれません、じゃあ難しいですね、みたいな。

 それは優位な立場からしたら、隠れて見えない知らない世界だと思う。自分が積極的に関わろうとしなければ知ることができないだろうし、普通に暮らしていると知るきっかけすらない。

 まぁ、一緒に住んでいても父親は知らないようですが。目をつぶることは簡単ですしね。知らんぷりだって簡単です。彼は知らなくても困らないことですし。

 さて、私の立場で「雇用に平等を!」と叫ぶとします。デモまでいかなくても、署名などで活動はあります。SNSで話題になることも。

 どの活動にもアンチは存在する。ですが、優位な立場の人が何かを訴えるより、「立場を利用している」と言われるだろうし、「不満をすぐに訴える」と見なされるでしょう。

 家で私が不満を訴えても「気にし過ぎ」「自意識過剰」「わがまま」と見なされます。障がい者・女性、それしか私を知らない人にとっては、より反感を持つだろうなぁと思う。

 「色んな社会保障あるのに、それでも不満?」とか言われると思います。しかしながら、社会保障があってもカバーできないようなことはたくさんあるんです。

 立場が弱い人をジャッジするのは立場が強い人です。彼らから見たら、弱い立場の現状は表面でしか見えません。それも限られた数だと思う。すべてのケースを把握することは難しいし、数値化されたものでは実態は分からないものです。平均とは信用ないものです。

 人は自分が安定したものを得たとき、それを手放すことは惜しいと感じます。一般的に。例外の人もいるでしょうけれども。

 優位な人が自分の優位を簡単に手放すか?「平等のために手放そう」と誰かが言ったとき承認されるくらいの人が同意するか?

 ないと思うなぁ。私の考えだけどね。

 立場の弱い人が「平等を!」と言っても、どんなに数が集まっても、弱い立場には変わりがないのです。残念だけど。立場が強い人が動かなければ変わらない、変わることが至極困難。

 「やっぱり何でも立場の強さで決まっちゃうじゃない。」と、私は時々思います。立場の強さって、こんなにも違ってくるんだ。発言力の違いって存在する。「平等を」、と叫ぶのは弱い人で、「平等だ」、と叫ぶのは強い人かもしれない。

 ここまで述べたことは、私が自分の身近な状況で感じたことです。もしかしたら似たような状況がどこかにあるだろうし、またどこかでは違うだろうし。違って当然。私はあくまで1例です。そして1例の個人の考えです。

 立場が強い弱い、は考えたくはないけれど、確かにあると思う。

 さて、日本社会でのことを私は述べていますが、今回の「#BlackLivesMatter」はもっと難しいと思います。あらゆることに絡んでくるし、無意識の先入観だってあります。小さい頃から染み込んだものがある。この肌の色によって引き起こされた悲劇は数えきれません。

 肌の色云々の話題がニュースで出たとき、私は心から思います。「動物は黒も白も茶も、マーブルも何でも同じ扱いなのに!」って(笑)

 例えば馬、「白馬の方が相応しい」とかはありますよ。でもそれは人間が勝手に思っているだけで、犬や馬、猫、彼ら動物は「この色は悪!」とかありませんし、私は見たことがありません。白馬が他の馬をいじめるとか。ハトが白いハトをつつきまわるとか。

 人間は一番賢くて、それ故に一番面倒な動物だと私は思う。いいじゃない別に肌なんて、と思うときもある。けれど、その「いいじゃない」と私が思うことに命を奪われる人もまたたくさんいるのです。

 コロナで大変な時期だけれど、この問題も大変な問題です。「日本は関係ない」と思うのは簡単ですが、国際社会でその考えは非常に危険だと私は思います。無知程恐ろしいものはない、と私は思う。

 少しでも多くの人が真剣に考えて、よりよい世界を生み出してほしいと私は思います。重いテーマだけどね。

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