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伝統と近代化。

733回目です。φです。

先日スポーツ流鏑馬をやってきました。結論:めちゃくちゃ楽しかった!(笑)

自分が知らない世界に飛び込むことの楽しさを改めて知った感じ。知っていたけれど、実態は不明。そういったものをひとつひとつ消化していくのも、自分の人生の選択肢が増えて言っているようで面白い。

私はそういう面があると自覚しています。興味があるものにはもちろん、そこまで興味がなくても「知った方がよさそう」と思ったものに対しては実際に体験してみる。そこで生まれる新しい感情だとか、知見だとか。少し自分の世界が広くなったようで、面白い。

こんな好奇心の強さが生かされて仕事になればいいのにー!といつも思う。新しいことをして、次につなげるような仕事。何かないですか?切実に問います(笑)

まぁ私の仕事事情は置いておいて。置きたくないけどさ。スポーツ流鏑馬について思ったこと。

私はいわゆる日本古来のものが好きです。居合道も、伝統を受け継ぐ、ということも刀文化を廃らせないためにも、技術を失ってしまわないためにも、という思いで道場の門をたたきました。入ってみたその世界はご高齢の方ばかりで。これじゃあ未来が明るくない、と思った。

じゃあ「新しい人が入ってこない、現代人が悪い!」と言えるかと言うと、そうでもない。

新しい人が入りづらい雰囲気を作っている、ということも原因だったりする。格式高いというか。「すごい人」じゃないと入れないような雰囲気とかね。

それが崇高な”伝統”の姿だ、と思う人もいるでしょうし、それに近づきたいからこそその技術を身につけたいと願う人もいるでしょう。

しかしながら、それだと時代と共に消えてしまう。伝統は時代に合わせて変わり、芯を失わずに存在するものだ。と、どこかで聴いたことがあります。

スポーツ流鏑馬をして、私がかつてやったことのある弓道との違いを見つけました。弓道と流鏑馬は違うけどさ。スポーツ流鏑馬と流鏑馬の違いも、少しだけ私は知ることができました。

スポーツ流鏑馬、と言うだけあって、流鏑馬とは少々違う。スポーツのために簡略化されたものもあるし、衣装だって違う。鞍だってウエスタンのものだしね(私が行った乗馬クラブでは、です)。

じゃあ伝統に忠実じゃないから、このスポーツ流鏑馬は邪道?

そうではないと思う。伝統の要素と、現代の要素が混じって、そして次のものに変わっていく。それこそ伝統なのだと思う。本来と全く同じではなくても良い。私はそう思う。廃れてしまわないためにも、現代の要素を取り入れ、そして進み続けることこそ大切なんだろうと思う。

昔から続くものが必ずしも良いとは限らない。実は私たちが「昔からの伝統で…」と思っているものも、それが始まった頃とは違った形になっていたりもする。始まったのが鎌倉時代だとしたら、鎌倉時代では平安時代からの伝統、と言っていたとしても、平安の人からしたら「邪道!」と思うようなものだったり(笑)

人間同士の関わり方も、伝統的なものを必ずしもしなくていいじゃない。今の人ならではの付き合い方って言うのもあるし、「目上の者を崇めよ!下の者はひれ伏せ!」が伝統をするためには必要不可欠ってわけでもないだろうしね。

伝統に関わるもので、何が一番悲しいって、そりゃ「消えてしまうこと」だと思う。廃れて消えて、過去のものになってしまう。後継人がいなくて。それが一番悲しい。

昔からのものに固執し過ぎると、現代に生き残れなくなる。現代を取り入れすぎると伝統が薄れてしまうこともある。バランスですね。

層を分けるのもひとつの手かもしれない。カジュアルでも伝統を受け継ぐ派と、変わらない伝統を受け継ぐ派。まぁいがみ合いとかありそうだけど(笑)

伝統は消えていってほしくないなぁ、と私は思います。形を変えても、残ってほしい。消えてしまったものは戻らないしね。

さてさて最後に宣伝。スポーツ流鏑馬、楽しいですよーおすすめ!

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