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性別と自己。

 475回目です。φです。

 今日は福岡35℃だったそうで…なんというか、これからどうなるんだろう。年々上昇していったら、生物が生きられる環境じゃなくなるような気がします。

 どうやったら地球は修復できるのだろう。そう思います。

 録画していた「恐竜超世界」というNHKの番組を観ていて、最後に出てきた隕石衝突のシーンで思いました。また地球のリセットみたいなことが行われて、正常化するのかな、それかその環境に適した生物が生き残って、また新たな世界になっていって。

 それが繰り返されるのかなぁ、と思いました。そのときのことを、私は知ることはできないけれど。

 いやいやもしかしたら台所のG並みの生命力を私一人が持ち合わせていて、カサコソと生き残って地球を見ているかもしれない。ううむ、それはそれで何だか嫌ですね(笑)

 さて、性別について少し思うことがあったから、そのことについて書いていこうと思います。難しいなぁと思うこと。


 今、性別の記入欄が排除されたり、「男性・女性・その他」になっていたり。色々な工夫がされています。お気づきでしょうか?

 私は「その他って書くくらいなら、記入欄いらないような…」と思うことがある。けれども心理学系のアンケートを作ったときのことを思い出すと、意外に必要な情報なんですよね。人間を生物学的に分けて、その特徴を関連付けようとするときには必要になる。

 私はそういった「生物学的特徴」で分けたいものがなければ、性別なんていらないのでは?と思っています。体に関わることではなければ、性別なんて関係ないと思うし。

 しかしながら、まぁ性別で何かしらのことを決めたい人はいるし、性別によって外見はある程度の範囲内でなければならない、と思う人もいる。例えば髪の毛長いのは女性だ、とか。髪が短いのは男性だ、とか。

 いわゆる男らしさ、女らしさ。それが何かしらの基準になっていることはあると思う。よく分かりませんが。

 身体的な特徴はあります。骨格も男性と女性は違っていて、だからこそ白骨でもどちらか分かる。私は解剖学が好きで学んだので、「男女の違い?骨格と臓器とホルモンバランス、染色体!」と思う。それ以外に違いってないと思う。ざっくりしていますが(笑)

 だからこそ「ピンクなら女性」「ブルーなら男性」とか、髪の長さで云々とか、服の感じとかで「らしさ」を言うのはなんだかなぁ、と思う。生物的な関係ないじゃない。

 私は割と「男尊女卑とか多様性とかって知ってる?」な環境にいる方なので、まぁ「らしさ」については日々耳にします。変なの、と思う。

 男も女もなんだっていいじゃない。医学的な場面では必要になるけれど、それ以外では「自分は自分!」だけでいい。私はそう思います。

 しかしながら、「らしさ」が性別云々ではなく好きな人もいます。「女性らしい服装が好き!」とか。花柄とかレースとか、ふんわりしたデザインとか。色もピンクや赤、暖色でまとめられているものとか。スカートやワンピース。

 それをただ純粋に好きな人も、「それを『女性らしい』というのは差別的だ!」というのもなんだか違う気がする。他にもメイクが好きな人に「女性だからといってメイクをしなくてもいい!」と押し付けるのも、なんだか違う。

 男性に対しては「車が好きだなんて男性的!」とか。ただ車が好きな人もいるだろうし。俗に「かっこいい」と言われるものを身につけているからと言って、その人物が「かっこいいものをつけるのが男性!」とは思っていないかもしれないのです。

 それを単純に好きな人が、「らしさ」を追求するなんて差別的だ、と言われるのもあんまりな気がする。平等や差別を考えすぎたことで、狭まってしまう考えがあると私は思う。

 そういった「差別だ」とかに至るまでには、根底に差別に対する何かしらの思いがなければならないと私は思っていて。根本にあるからこそ反応する。その「差別」と思われることを知らない人にとっては、「なんで?ただ明るい色なだけでしょう?」とかになる。

 それを無知と言うか、差別がないと言うかは人によって異なると思う。難しいですね。

 私たちには価値観があるし、何にしても基準がある。先入観や偏見だって、どんな場面においても存在する。気づかないこともあれば、自覚していることもある。私だって、数えきれないほどの先入観と偏見を持って生活しているだろうと思う。意識していても、自分が知らないことに対して無知で失礼極まりないことだってやっていると思う。気づくたびに考えを修正しようと思っているけれどね。

 もし、すごーく性別においての考えが進んだ世界があったら、きっとピンクを見ても「うん、ピンクですね」くらいにしか思わないだろうと思う。ピンクはピンクで、そこに性別が入り込むことはない。「ピンクが好きなんだ、へぇ。」、そんな言葉が誰にでも送られるかもしれない。

 まぁ現在はすごーく性別において考えが進んだ世界ではないし、国でもない。私が思う限りはね。

 純粋にピンクが好きで選んだら「女性的!」と言われるかもしれない。それが嫌な人もいるかもしれない。反対に「女性的!」と思って選んだら、「女性だからその色選ばされたんでしょ」と言われて嫌な人もいるかもしれない。

 どことなく、「純粋に」することができなくて、何かしらの「平等」に好きなことをつぶされてしまう人がいるように私は感じます。そこまで気にしなくても、と思うようなこと。人によって考えが違って、多様性を求めるようになったからこその難しさなのだと私は思うけれど。

 「なんでもいいじゃない、その人が好きなら」、それがどんな場面でも当たり前になったなら、どうなるだろう。私は思います。その人がその人らしくいられることが、幸せだと思う。

 必要な場所では性別は必要です。必要な場面で、性別に差別はない。ただ「その体を持っているから、適切な処置のため」だと思う。それなりに配慮は必要だと思うけどね。人間感情があるので、気持ちも見捨てることはできないし。

 もし全く性別に対して「生物学的以外に違いはない」という世界が存在して、そこに生きる人たちが私たちを見たらどう思うのだろう。不思議なことにあふれているのかもしれない。

 私は「女の子なんだから、」から始まる言葉で色々と言われてきました。今でも思う、「だから何?」という疑問。性別云々の前に自分の自己がある。自己より先に性別は来ないと私は思います。

 変な世界だなぁ、と思う。なんでも性別が物申すって、おかしな世界だと思いませんか?

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