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配慮の難しさ。私にとっては、と誰かにとっては、。

 448回目です。φです。

 昨日はあの京都アニメーションの事件から1年でした。まだ多くの方があの日のことを鮮明に思い出せると思います。それほどまでに強烈で、ひどすぎる事件でした。

 そんなニュースが飛び交うのだろうか、と思っていたら、人気の俳優さんの訃報がありましたね。私はあまり芸能界に詳しくないのですが、お名前は知っていたし、私が録画で観ていた「ファイト」というNHKの番組にも出ていたと聞いて、どうやら私は彼の活躍を見ていたようです。2005年のテレビ番組。

 私にはおそらく、適切な言葉を贈ることはできません。ですが、とても悲しい。心から哀悼の意を表します。どうか昨日の彼の決断が、彼の救いであることを祈ります。

 悲しいニュースが続きますね。気落ちなさる方も多いかと思いますが、情報によって心があまりにも落ち込むようでしたら、離れることを私はおすすめします。

 さて、今日は誰にでも快適なことってどうなんだろう、とふと思うことがあったので、それについて書こうかなぁ。「誰にでも」って簡単なようで、難しい。


 私は感覚過敏です。特に視覚過敏と聴覚過敏、触覚過敏がひどい。…あれ、ほとんどになっちゃいますね!

 味覚は過敏な分野と鈍麻な分野がある。とは言っても、鈍麻なのは辛味。つまりは痛覚に左右されそうな味覚なのです。私は辛いと言われるものを食べても、辛いとは思っていないようです。「味が濃いなぁ」とかは思うけど。あとやたら汗出るし、顔じゅうの穴から水分が…となるだけ(笑)

 味自体には…うーん、どうなんだ。塩が少しでも強いと食べられないけれど、ちょっと腐っていたりしても気づかないときもある。困ったものですね。

 そんないまいちよく分からない味覚に関しては置いておこうと思います。私自身も混乱しそうだし。

 視覚過敏と聴覚過敏は特に社会生活を送るうえで大変です。蛍光灯や色ですぐに目が疲れてしまうし、目が開けられないときだってあります。黄色が白地に書かれていると、光がはねて見えなかったり。黒の文字であっても、白地があまりにも白いとはねて読めない。

 いわゆる雑紙の方が、私の目にとっては優しい。お値段も優しいね!(笑)

 聴覚では、誰も聴こえないような音にすら反応してしまう。冷暖房の稼働音、パソコンの稼働音、などなど…オフィスには絶対にあるよね、な電化製品の音に悩まされます。ほんと、私の聴覚って動物並みでは?と思うことだってある。

 仕事をしていて、本当に困った感覚はこのふたつ。視覚と聴覚。この問題がクリアできれば、就職も少しは幅を広げられるのでは…!と思ったものです。

 しかしながら、そこでも問題が発生します。同じ「障がい者」として採用されるであろう方々の中には、目が不自由な方もいらっしゃるし、耳が不自由な方もいらっしゃる。その方たちにへの配慮が、私のような感覚過敏にとっては「配慮されていない」環境になってしまうのです。

 とある説明会で聴いたこと。「耳の不自由な方のために、音量を変えることができる・もしくはそれに配慮した対応をします。」ということ。

 これらは、私にとっては「過敏なので辛いです」となってしまうわけです。一言に障がい、とまとめると、誰かにとっては配慮のなされた、また誰かにとっては配慮のなされていない、そんなことになってしまう。

 聴覚において、私にとっての不快感なく聴こえる音量は、耳の不自由な方には聴こえない音量になってしまいます。また視覚においては、私にとってちょうどいい明るさは、多くの人にとっては「暗すぎる」ことになります。文字も読みづらいとか。

 「誰にでも配慮のなされた」とはなんとも難しいものだ、と私は思います。今回は私を例にして書いているけれど、まぁ感覚過敏の度合いは人によって異なる。なんとも言えないけれど、「ひとりの感覚過敏として」は、配慮の難しさということを実感します。

 誰もが使いやすくなるもの、もあるとは思います。例えばスロープとか。段差の少ない建物とか、点字がどこにでもあるとか。点字があっても、誰かが不便になることはない、と私は思います。

 少々私が「点がいっぱいある!」と集合体恐怖症らしい反応をすることはありますが(笑)

 選択肢が多ければいい、というものでもない。配慮、という言葉は広まったし、取り入れる企業も増えてきたけど、難しいことには変わりがないと思う。すべての人への配慮を行き届かせることって難しい。ある程度のターゲットがなければ、誰にでも使いやすいはずが「誰にでもちょっと不便を感じる」ものになってしまうことだってあると思います。中途半端がゆえに、という具合に。

 配慮、と言う言葉を私はここ数年で頻繁に使うようになったし、聴くようにもなった。目にすることも増えました。

 しかしながら、言葉の意味は簡単なのに、実際には難しいものです。配慮をひとりひとりに合わせてできることがそりゃべストかもしれないけれど、それが現実問題難しいことでもあります。不可能のことだってある。

 私は感覚過敏を障がいとして感じているので、感覚過敏って配慮が難しいし、他の障がいを持つ方と上手くやっていくのが難しいと思います。「配慮がなければまったくもって働けません!」というレベルではないけれど、配慮がなければ蓄積されたストレス等で最終的に働けなくなる。困ったものです。

 私は高齢の祖母が家にいます。祖母は耳が遠く、補聴器が気に入らないらしく使いません。持っているのだけどね。

 そのため、誰かと話すときは大音量。テレビも大音量。自分の声も大きい。

 私とは相性が非常に悪い。高齢者と切り離して考えることができるものって少なくなっているご時世、「高齢者に合わせると不便です!」とは言えないものです。数的にもね!

 どっちかに水準を合わせると、確実に片方が不便。そんなことになるのです、配慮って。

 自分にとっての快適な環境とは何か、を改めて考えて、配慮の難しさについて思いを馳せました。難しいですね、見えない障がいって特に。「前に出会った人は〇〇だったから」が通じないものでもあるわけだし。

 誰もがものすごーく快適じゃなくても、不便を感じずに過ごせるものって何だろう。それが見つかって、多くの環境に取り入れられたら、広がる世界ってあるんだろうなぁ。

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