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「批判」と「非難」

 470回目です。φです。

 今日は涼しいのかな~と思っていたのですが、至って普通に30℃超えてました。気づかなかった…これだから毎夏熱中症になるんでしょうね(笑)

 そういえば、スマートウォッチは体温や脈拍、血圧、血中酸素濃度、などなど分かるそう。先天性無痛無汗症の助けになるかもですね。私は無汗症がない方の先天性無痛無汗症なので、体温の上昇でそこまでひどくなることはないのだけれども。

 にしても、「先天性無痛無汗症で、無汗症じゃない方」ってなかなか面白い表現。「どっち?」って感じがしますね!

 発達障害でも、体の不調を気づくことって難しい。体の調子を把握することが難しい人には、すごく助けになるんじゃないかな。スマートウォッチ。

 さて、スマートウォッチの話は置いておいて。今日は最近ふと感じたことについて書こうと思います。

 「批判」と「非難」は違うと思うのです。


 しばしば耳にするのが、「日本人は批判的な視点がない」とか、まぁそんな感じのこと。議論ができないのも批判的な視点に立って考えることができない、する文化がないから、とか。

 しかしながら、色々なことに関して「非難」はされます。炎上とかもあります。最近で言えば、アベノマスク。結構な非難がなされたように思えます。私もあれはどうなのかなぁとは思いましたが。

 ちょっと疑問に思った。「批判」と「非難」、どう違うのだろう?

 goo辞書で調べてみると、

 「批判」

 1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。
 2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
 3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

 「非難」

 人の欠点や過失などを取り上げて責めること。

 だそうです。

 まぁアベノマスクのことに関して、その行為自体を「過失だ」と結論付けるのなら非難することも言葉的にはおかしくはないのだろうけれども。

 アベノマスク以外のことでも、ちょっとしたことですぐに「非難」がされるように私は感じる。「批判」じゃなくて。

 色々な文化的なことがあって、批判することが難しいのかもしれない。集団での規律が守られることが第一だ習性に似たものが存在するのであれば、批判の意味のひとつ:人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じることは非常に厄介なことになる。集団vs個人ならできるのだろうけれど、個人vs個人では難しいのかもしれない。

 多数派が少数派に対して、批判することはできるのかもしれないけれど、なぜか批判じゃなくて「非難」になっていると私は思うなぁ。誰かの意見への「対立する意見」を述べるのではなくて、「過失」とみなす。あれが悪い、これが悪い。非難の嵐、そんな感じ。

 私が受けてきた教育は、どちらかと言えば「一般的な」ものではないと思う。神学校だったし、今思えば何かと違った。だから私は「学校の指導が~」とは言えないのだけれども。

 大学ではディベートもあったし、中学高校でも「しっかり自分で考えること」は言われていたような…とある古文の先生から「論理的に理由を述べ、自分の正当性を証明できるのなら」答えの間違いを正しいものだということにする、と言われたこともありました。私の証明はどうやら良かったらしく、ちゃっかり点数もらいました私(笑)

 まぁそんな学校。先生が絶対ではないというか。素敵な学校です。まぁ昔のことだけど、学長vs学生でもめたこともあったので、そういう精神は受け継がれているのかもしれない。多分。

 大学で、私は公立中学校・高校を経験した人にたくさん出会いました。彼らを含め、色々な人とディベートする機会があったのだけど、かなり苦手そうだった。「反対意見ってどうやって考えるのか?」「論理的な思考ってどうするのか?」「意見を反対されたらすごく悲しいし、言い返し方が分からない」、そういった言葉をたくさん聞いた。

 私の批判的な意見は怖すぎると言われまくったので、非常に記憶に残っています…普通に説明の不十分さや根拠からの飛躍っぷりとかを指摘しただけなのですが…あの後「怖い人」認定されましたね。なんで。

 まぁ私が実際のところ怖いか否かは置いておいて、「批判すること」も「批判されること」も慣れていない感じがした。「自分の意見が批判される」=「自分が批判されている」と感じるようだったし。

 これが教育の影響なのかな、と思う。だとしたら、急に「批判的に考えろ!」を大学や新社会人となって言われても、「どうしろと?!」になるのは当然かもしれない。

 批判的な思考をすると、誰かが気づかなかったものに気づく。批判するには吟味しなければならないし、吟味するためにはその事自体や周辺に関しても知っておかなければならない。「何も知らないけど批判した!」は不可能に近い。評価を下すのに、「何も知らない」では下すことができないから。「非難する」ならできるだろうけどね。

 しかしながら、色々と面倒なことが起こらせないようにするには「批判されない方が良い」と私は思う。批判されたら、隠していたものや欠損がバレてしまう。誰もが首を縦に振った方が、解決だって速いし、不十分であっても実行できるし。それが本当に良い方向に向かうかと言うと、肯定できないと私は思う。

 常に対立する意見があるからこそ、考えはより深くなって、洗練されて、理想に近いものになる。時間はかかるし、手間もかかるし、面倒極まりないかもしれないけどさ。

 急に「批判的な思考回路を手に入れるべし!」は難しい。小さい頃から、ちょっとしたことに対して批判的な思考をしていくしか方法がないと私は思う。本に書いてあったのを知っているから批判的な思考回路を持っている!というのも、なかなか…本に書いてあることを実践している時点で、批判していないとも言えるような…いやこれを言ってしまうと「じゃあどうやって?」になってしまいますね(笑)

 けれど、私は「非難するけど批判はしない、批判NG」はどうなのかなぁ、と思う。意見に対して、発言者を叩く。それは本当に正しいことなのか?

 私は哲学の懐疑主義者たちを見て「うわぁ面倒くさい、好き!」と思ってから、批判すること、懐疑的態度をとることをするようになった。心の中であったり、実際に意見することだったり。そこまで積極的に正面衝突はしないけどね。

 今SNSを通じて、誰かの意見を聞くことが増えました。目にすることも。そして「批判」せずに「非難」することが増えたと私は思う。その非難が積もった結果、最悪の結末になってしまったことだってたくさんあります。

 批判と非難は違う。当然のことだけど、これが当然区別されるようになることを私は願います。

 批判することで新しいことが生まれることはあるけれど、非難では何も生まれない。私はそう思うなぁ。

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