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無数の愛

 

 海では浮力が強くはたらくから、大きく息を吸いこむと、そのぶんだけ潜るのに力を使う。

 深くまで潜りたいからたくさん息を吸いこむのに、これではなんだかあべこべだ。けれどすこしだけ力をふりしぼり、ある見えない均衡線を超えたとき、海底へと垂直に沈んでいくのがぐっと楽になる。

 得意なことの大半は、放っておいても巧くできてしまうことなので、何ができているかをきちんと自覚することはなく、なぜ得意なのかをしっかり吟味することもない。たとえば歩くこと。ものおもうこと。

 できないことは、そうはいかない。


 きょう、東京の国会前ではそれなりに大きなデモが組織され、現地の様子をネット経由で伝えてくる知り合いも幾らかいたけれど、より関心が惹かれたのはクアラルンプールで起きているデモのほうだった。おおよそ数万人、一説には二十万人が参加したとか。

 クアラルンプールのデモ参加者はみな黄色いシャツを着ているので、東南アジアの大都会を舞台にしたその写真の群れは、二年前のバンコクでの黄シャツ派による大規模デモによく似て見える。たまたまといえばそれまでだけれど、去年の香港雨傘デモの際にも、黄色はみなのシンボルカラーとなっていた。

 鮮やかな黄色はほんとうに、夾雑物の集積のようなアジアの都市にはよく映える。とりわけ雨の日などには。黒く濡れたアスファルトの地に咲く菜の花の、海。


 透明度の高い海でも、海深二十メートルを過ぎると陽の光はかなたへ遠のく。三十メートルを超える頃には、藍の闇が身のまわりを支配する。四十メートルに達したとき、唐突に海底の砂地へ行き着いた。信じられないほど真っ白な砂地へ足をつけると、粒子の細かい砂が白煙となり、藍の空へ舞い上がる。

 呼吸が、これら両の手足を生かしている。ほんとうはすぐにでも海原へ戻らなければと、頭をあげる。視線を真上にあげようとするさなか、視界の端を巨大な異物が通りすぎる。一瞬の混乱、全身が凍りつくほどの震撼。あってはならないものが目に入る。

 大階段。昏い海底の白い砂地から、斜め上方の闇なかへと、大階段が伸びている。


 きょう、登録している各種SNSのタイムラインを駆けめぐったもうひとつの大きなニュースは、半月前のバンコク爆弾テロに関して、初の容疑者逮捕が出たというもの。逮捕拘束されたのはウイグル系のトルコ人男性で、彼の自宅にはそれなりの物的証拠も揃っていたらしい。

 テロ直後、個人的に最も筋を感じたのはウイグル難民関連説だったので、やはりという思いもゼロではないが、現段階ではあまり安心材料にもならない。タイの警察が国際社会からの圧力に晒されたとき、都合の良いでっち上げを急ぐのはすでに見慣れた光景だし、たとえ件の主犯が捕まったとしてこれが本当の話なら、彼を英雄視する後続の模倣者は高い確率で再生産されてゆく。だからリスクはリスクのまま、なお牙剥く時機を付近の暗がりで待っている。都市交通の高架下で。雑踏に忍び置かれた手さげ袋の内側で。

 

 大階段の、ゆるやかな傾斜に沿って浮上する。呼吸の限界を考えれば危険でしかない、挑む価値のまるでない賭けなのに、大階段の階上へこのからだはどんどん泳いでゆく。幅広の階段はいくつかの踊り場をへて、際限なく一方向へと伸びている。上階フロアも階段付近のほかは藍の闇に消えて見通せず、とりあえずはさらなる階上へと泳ぐ。

 心算で海深三十メートルまで戻ったころ、階段の斜面と次の階の天井平面とがつくる三角形の隙間に突如、淡い水灰色の空が現れる。そこにあるはずのない青空を、凝視する。空が覗く方角へと姿勢を変え、さらに浮きあがっていく。三角形の隙間は抜け出てみれば、足元で土手の斜面と陸橋の線路とがつくる三角形の闇に姿を変えている。ガード下の河川敷。


 台湾では、李登輝による現総統への批判と尖閣問題への言及が世論を沸騰させている。マレーシアでは、マハティールがデモ会場に登壇して、汚職の疑いが濃い現首相の辞任を叫ぶ。政情不安を抱える点は周辺国と同じでも、かつて一国の興隆を一身に引き受けた重鎮が、なお健在であることの強みは大きい。

 タイではどうか。タクシンは分裂の当事者ゆえに、政界ご意見番の資格に欠けてしまうし、プミポン国王のもたらしてきた人心の安寧がもう長くは続かないことは周知の事実だ。と、タイ語や英語でもし公に発言すれば不敬罪で投獄されかねない現状が、逆にこの社会不安をよく証している。日本はどうか。重鎮の不在と、デモの迫力のなさにはどこかで通奏音が響いている。すでに誰ひとりとしてもう本気では、まったき前進を信じていない国。こういう物言いに反発する向きは容易に想像できるけれど、どのような認識のもと暮らしていくかという話として。

 この身この心を統治する。その論理。その視界。この手足。脈動する。

 呼吸する。



 子どもたちに襲われる。鮮やかな黄色の通学帽をかぶった子どもたち。はしゃぐ彼らに腕や膝を抱え込まれて、力のかぎり手足をふり回しても、これ以上はもう浮きあがれない。首だけで空を見あげる。

 さいごのひと息がゆっくりと、肺からのどへ漏れあがる。

 水灰色の空がひろがる。


 

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