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文学フリマ東京の感想

昨日は、小此木君と二人で泊まるつもりで取った部屋を独り占めにしたが、シャワーを浴びている時に、遠くにいる時のソワソワとした不安感がなく、自宅にいるような落ち着いた心地になっているのに気づいた。旅慣れたということか。それよりも、自宅や所有物に対する執着が薄らいだのであろう。東京というものにも、新奇な目はなくなり、親しみが湧いても来たし、万事に対して焦りや苛立ちを抱かなくなった。これは私にとっては大きな成長であり、幸福である。
平野謙は「私小説の二律背反」といって、私小説を書く作家は、生活の艱難を小説に仕立てるが故に、生活が安定してしまうと作品が書けなくなると論じたが、これは私小説以外のものでも当てはまるだろう。そうすると、私の成長、私の幸福は、書き手としての私には有難いばかりではないわけである。もちろん、安手の不満感で作られた粗っぽい小説などは書かずとも良いが、今は書くのに適した時期ではないのであろう。

文学フリマでは、女性の購入者が少なからずいたことは意外であった。これまであまり考えてこなかったが、我々はかなりホモソーシャルな雰囲気だと思う(だから考えてこなかったのだろう)。女性には、多くの男性にはない感じ方があるであろうから、我々のものが女性の目からどう見えるかというのは興味深い。
作品がずらりと立ち並ぶ空間を呼吸していると、自分たちのものを見る目も変わるもので、我々のものに価値があるとすれば、それは初々しさとか、不器用さから覗く人間味なのだという気がさせられた。とにかく、あの並びにいて他に引けを取らないものを作りたいものである。比較するのは不当であるが。「てっぺん取りましょう」と言っている人を見かけて、不健全な感じがした。文学は多い少ないでは測れぬものである。周りを見回して競争心を燃やすのではなく、自分自身の生を見つめ見つめ、ひっそりと言葉の刃を研がなければならない(何たる気障!)。
「まえがき」で、谷垣君がこの『灯台』はむしろ書き手のためのものであると書いていた。それは決して読者を蔑ろにするという意味ではない。読者が面白いと思うものを書くためには、書き手は読者より己を見つめねばならぬだろう。次号以降より面白くなることを願う。

霜舟

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