『灯台』文藝同人誌

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『灯台』文藝同人誌

文藝誌灯台の公式アカウントです。此処では、当雑誌参加作者である、石田霜舟、小此木清子、谷垣康介が気儘に文章を書きます。宜しければご覧ください。各種SNSアカウントも御座います。 当雑誌サイトはこちら https://sub.bunngeishitoudai.shop/

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最近の記事

ゆらゆらぐるぐる (唾玉録 五)

いつもより、少し長くなってしまった。『川』ノート完結編ということで、ご容赦願う。 井伏鱒二『川』ノート第十六日 前回、第十一日から第十五日までは、地蔵と立札の由来のお話に費した。これは、四部作の二作目「川」の前半に当る。今日は、この「川」の後半に当る部分と、第三作「洪水前後」に当る部分を一気に見るつもりである。 それというのも、実は、昨日井伏の「谷間」と『多甚古村』とを読んで、どちらも私の興味を刺激したので、私は井伏の作品をもっと読みたい、『川』以外のものもたくさん読みた

    • 自然と人と (唾玉録 四)

      井伏鱒二『川』ノート第十一日 山に突き出た大きな岩からチョロチョロ流れ出した水が水流を増して、極稀に人の通る古い土橋の下を流れ、遊ぶ子供たちの声を聞き分ける地球儀の老人の傍を流れ、六軒の家が並ぶところに架かる黒い木橋の下を流れた。 いきなり二段落すべてを引用してしまった。渦の描写として、省くわけにはいかなかったのである。この渦の描写は時に説明的で、時に描写的であって、相補的に渦の運動を描き出している。 私は川や海で、水の成す渦の運動をしばらく眺めていたことが何度かあるが

      • 【思索】詩作について : 附、漢詩の試作(小此木記)

        文藝誌『灯台』の小此木です。 実は先月、第三回目となった『文藝誌灯台』定例会議にて、谷垣さん、石田さん、そして私とで、詩作を今後の活動に加えることについての検討が、大きな議題の一つにありました。 詩については、当誌編者の谷垣さんが、広報(X、旧Twitter)の中で幾度か言及されていたので、ここで私がそのことを漏らしても問題ないかと見切り発車をし、今回は私個人が思う、考える、詩を試みること、試みたこと、について、少しだけおしゃべりをさせていただきたいと思います。とはいえ、会合

        • 迷える衆生(唾玉録 三)

          第五回までは、五日分の『川』ノートと雑記帳の二部構成である。もともと自分の迷いの話を書いていたから、「迷える衆生」と名付けたのだが、分量の都合から消してしまった。消したということも含めて、「迷える衆生」としておきたい。 『川』ノートについても、書き終えてみて、不満がある。そもそも読み進めながら取ったノートをそのまま公開するというのは、余り蕪雑に過ぎるのではないか。しかし、始めてしまった以上はけじめをつけたいし、こういう気の抜けた、ダラダラした書き物も、人により場合によっては好

        ゆらゆらぐるぐる (唾玉録 五)

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        • 石田による投稿
          8本
        • 小此木による投稿
          4本
        • 谷垣による投稿
          4本

        記事

          電気音響変換器と囁きについての試論、メルカディエとボールドウィンの発明とその創出の背景についての一仮説の検討(小此木記)

          序論  前略、イヤホンあるいはヘッドフォンについて、考えていたことをここに記してみたいと思います。というのも、現代に生きている人々の、特に若者の多くが、ほぼ毎日の如く身に着けているものというところで、このイヤホンといった音響変換機と称される電子機器があります。街歩いていて、こんなにもそれを装着する人を見ない日は無いといって異論はないでしょう、今やすれ違う人の半数近くが耳に何かしらの電子器具をつけて歩いているという事態に気づいたときには、それが我々の子供時代に触れたSF作品の様

          電気音響変換器と囁きについての試論、メルカディエとボールドウィンの発明とその創出の背景についての一仮説の検討(小此木記)

          今後と昨晩の出来事に就いて。(谷垣記)

          文学フリマ東京38を終えて。 文学フリマ出店も無事終えまして、結果六部程届いたという報告を(I)君から受けました。私なぞは、一部すら届かぬやもしれぬと思って居たので、六部と聞いた時には驚きました。六部、詰り六名、小さいアパートなら、全住民が読者のような規模でしょう、夢のような話だと私は思います。  余談ですが、「売れる、売れた」という表現は好みません、出店という事だから、少なくとも其処に、商売の気位は有るのでしょうが、「売れた」と云ってしまうのでは、何だかそれぎりの関係

          今後と昨晩の出来事に就いて。(谷垣記)

          文学フリマ東京の感想

          昨日は、小此木君と二人で泊まるつもりで取った部屋を独り占めにしたが、シャワーを浴びている時に、遠くにいる時のソワソワとした不安感がなく、自宅にいるような落ち着いた心地になっているのに気づいた。旅慣れたということか。それよりも、自宅や所有物に対する執着が薄らいだのであろう。東京というものにも、新奇な目はなくなり、親しみが湧いても来たし、万事に対して焦りや苛立ちを抱かなくなった。これは私にとっては大きな成長であり、幸福である。 平野謙は「私小説の二律背反」といって、私小説を書く作

          文学フリマ東京の感想

          東京へ 文学フリマ前日の記

          東京へと向かう高速バスの中である。窓を通して射す日の暖かさでうっとりとしている。横光利一の「火」は、キビキビしていてしみじみする。次々と通り過ぎてゆく山は青々として気分が好い。 『文藝誌灯台』は、谷垣君が小此木君に声を掛け、小此木君が私を誘ったことで今の形になった。谷垣君と小此木君は旧知の仲であるが、私は小此木君とはそれ迄顔見知り程度であって、谷垣君のことはもちろん知らなかった。 小説についても、私は今度、たまたま書き溜めがあっただけで、書く習慣はなかった。お蔭で今、手習い

          東京へ 文学フリマ前日の記

          井伏鱒二『川』を読む(唾玉録 二)

          またしても雑談である。 前置き 私は、我が『灯台』同人の他の二人とはかなり違う性質だと前々から感じている。だいいち、二人は以前から小説家を目標のように考え、小説を書くことに喜びを感じ、実際書き続けてきたというが、私はというと小説家になろうと思ったことは思い返せばないではないが、その夢を入れた箱は随分昔に何処かにしまって以来、行方が知れぬので、最近になって小説なるものに手を染め始めるに際しては新たに箱を拵えねばならなかったくらいである。書くものの内容にしても、私は二人のもの

          井伏鱒二『川』を読む(唾玉録 二)

          創刊号完成。

          文芸誌「灯台」編集担当の谷垣です。つい先日、当雑誌の創刊号が漸く完成を迎えました。 残す処は後、5月19日東京開催の文学フリマ出店と頒布に成ります。 此度印刷所は、イシダ印刷さんを頼りました。データの修正や微調整に至る迄、迅速かつ丁寧に対応して頂き感謝しか御座いません。 当日は、Dー12にて皆様のお立ち寄りをお待ちして居ります。 石田氏と小此木氏が皆様をお迎えする予定で御座います。 是非是非、一度お手に取り御覧下さいませ。

          【エッセイ】小説の題名(小此木記)

          [はじめに]   文藝誌『灯台』の小此木です。本日は、小説の題名あるいは表題というものについて書いてみようと思います。小説作品の題名、そんなたった数文字の言葉だけを見て、その深淵なる諸作品の世界についてほとんど何も語ることが出来ないというのはその通りなのですが、この拙稿は、小説の題名についてだけを語ってみることによって、今現在文学の一次創作を行っている人たち、あるいは読むだけでもう満足も満足だという本の蟲でいらっしゃる方々に、是非とも自身の本棚を振り返ってもらいながら、こいつ

          【エッセイ】小説の題名(小此木記)

          「真」の文芸? 谷垣君へ (霜舟)

          漱石を読む前に 谷垣君にとって漱石が風変わりな叔父だとしたら、我々は親戚自慢を聞かされた恰好になる。ただ、彼の叔父は、我々にも気軽に近づけるわけだが。漱石が文芸の理想を四つに分けたというような話は、結局抽象論の域を出ないから、是非を問う体の問題ではない。しかし、現代の文芸は「真」の文芸だという漱石の考えにしても、現代の文芸は「荘厳」によって再興できるのではないかという君の意見にしても、ハア、マア、そんなものかしらん、というのが今の私の感想である。 しかし私には漱石のことが

          「真」の文芸? 谷垣君へ (霜舟)

          文学フリマ東京38で【文藝誌灯台】を頒布します。 ブース: D-12

           どうもこんにちは。文藝誌灯台で御座います。 noteでは主に「灯台」の主要作者による記事を公開して居りますが、今回は、文学フリマ東京38出店に就いて書きます。 文藝誌「灯台」創刊号の頒布  上述の通り、我々は、文学フリマ東京38にて文藝誌「灯台」創刊号を頒布致します。ブースは、 D-12で御座います。  ジャンルは、「純文学」(便宜上)です。私(谷垣)としては、「純」を取り払って、単に「文学」とした方が適当のような気が致します。  小説、随想が今回の主な掲載物ですが、雑

          文学フリマ東京38で【文藝誌灯台】を頒布します。 ブース: D-12

          漱石「文芸の哲学的基礎」に親しむ。(谷垣記)

          はじめに  私は漱石が好きである。  風変りな叔父を子供心に慕うような好感が私の漱石には有る。極々詰らぬ親戚の会合も、漱石叔父さんが来ると聞けば余程重い腰もふわりと浮つき、きっと前日の晩にも成ると、如何困らせて遣ろうか知らん、と此ればかり考えて、無邪気な胸を其の儘に夢の中に入る自分が容易に想像される。  私は漱石の前では何処迄も甥で在る。蓄えた口髭は威厳に在らず、含み笑いの対象である。詰り、親しむのである。  世に彼の小説を親しむ文章は可成り有るが、評論と成るとそうでも

          漱石「文芸の哲学的基礎」に親しむ。(谷垣記)

          語ることと信ずること (唾玉録 一) (霜舟記)

          唾玉集という、明治期の作家等へのインタビューを集めた本がある。インタビューではないが、気楽な雑談というつもりだから、それに因んで唾玉録という。 鉄斎展 出掛けた帰途、鉄斎展の表示が目に入った。近付いてよく見ると、京都国立近代美術館は金曜のみ普段より二時間長く開いていて、その間は少し安くなるのだという。ちょうど金曜日だったので、岡崎公園に飛び交う外国語の中で散り残った桜を眺めたり、ナンで重たい腹を横たえてみたり、買ったばかりの古本を検分したりして、六時まで暇を潰した。考えて

          語ることと信ずること (唾玉録 一) (霜舟記)

          【評論】夢野久作の短編『怪夢』より、『工場』と『空中』について(小此木記)

          主題 夢野久作の短編『怪夢』より、『工場』と『空中』について 副題 夢野久作の作品群に共通する主題と骨子に関する試論 ・0.はじめに  文藝誌『灯台』の小此木です。不得意なのですが、本日は評論をやります。  今回論じるのは、奇書『ドグラ・マグラ』でも有名な夢野久作の、『怪夢』についてです。昭和31年『文学時代』10月号、昭和32年『探偵クラブ』(6月)にて連載された短編の集まりを言います。その中で、『文学時代』に掲載された『工場』と『空中』という最初の二作品を

          【評論】夢野久作の短編『怪夢』より、『工場』と『空中』について(小此木記)