【思索】詩作について : 附、漢詩の試作(小此木記)

文藝誌『灯台』の小此木です。
実は先月、第三回目となった『文藝誌灯台』定例会議にて、谷垣さん、石田さん、そして私とで、詩作を今後の活動に加えることについての検討が、大きな議題の一つにありました。
詩については、当誌編者の谷垣さんが、広報(X、旧Twitter)の中で幾度か言及されていたので、ここで私がそのことを漏らしても問題ないかと見切り発車をし、今回は私個人が思う、考える、詩を試みること、試みたこと、について、少しだけおしゃべりをさせていただきたいと思います。とはいえ、会合の内容、ほかのお二方の詩についての考え、今後の活動に関しての見解については、幾ら私が彼らと同志であるといえど、この口から勝手に語ることがあるとすれば、それは決してお行儀のいいことではありませんゆえ、今回そうしたことはいたしません。ただ、この度私が詩について思っていることを語らせていただきたく思います。そして、本稿の最後に、戯れに私も漢詩を作ってみたので、恐縮も恐縮ですが、是非ご一読いただければ、この上ない幸いと思っています。では、以下本文です。

私個人が詩について思っていることは、もう一にも二にも、松尾芭蕉の俳句が如何に優れているか、それについて聞き知った言説の受け売りなのです。句や短歌や詩の定義上の違いなどは、無学の私にはあまりよくわからないのですが、私が勝手にも思うことは、優れたる詩作は下記のようなことをしていると考えているのです。
それは、すべてを言葉で語らずに、しかし言葉のみも用いて、欠けたることのない世界を提示する、これだと思っています。芭蕉の場合、僅か五七五の計、十七文字で詫びも寂びも含んだ風景を提示してしまう、そんな彼の句のように。例えば彼の代表的な句「古池や蛙飛び込む水の音」を参照して言えば、蛙が古池に飛び込む、ということを聞いただけで、その蛙と古池と水の音だけではない、その蛙を含んだ古池の傍、湿った苔の匂いや、春の温かさを過ぎた優しい熱さを纏う気温、そして蛙飛び込む水の音が貫く森の静寂、そうしたすべてが我々に示唆されるのです。これだと思いました。すべてを説明するのは野暮なのです。語れば、語った瞬間にそれは、子供が大事な説教を話し半分にして聞き飽いてしまう、そのような無粋を生じてしまう。しかしそれをやらない、それこそ、私は俳句や短歌、詩がもたらす感動の大きな要点だと思っています。
しかしこれは同時に、長々とした文章量を伴う小説を否定するものでも決してないのです。私は、イギリスの偉大なる作家ジェーン・オースティンを読んでも、芭蕉の時と同じことを思います。川端康成の『雪国』を読んだ時にも思いました。彼らはすべてを語らずに世界の本質を語る名手だと私は思っています。オースティンの場合ですと、彼女の、痛烈で時に残酷なまでのアイロニー(皮肉)は、その皮肉を被る者の愚かしさを、それが愚かしいことと言わず、愚かしい行為のみを読者に示してしまうことによって我々に、間接的に見えてその実は、世間に生きる我々の実感の感を呼び起こして直接的に働きかけることにその優れたる技巧を発見します。川端の場合については、好い機会ですので是非とも、皆様自身の目でお確かめください。私が今思い当っているのは、傑作『雪国』の序盤の序盤、車窓にうつる影の場面です。きっと私の言いたいことがわかっていただけると思います。
よく、優れた著者の小説を読んだ後に思い浮かぶ感想で、彼らの文章に無駄がない、という誰でも言えそうな感想がすぐに思い浮かんでしまうのは、またそうした安易な誉め言葉が常に彼らの作品に当てはまってしまうのは、そうした無粋を悉く伴わない、彼らの手腕があるからなのです。すなわち、芭蕉の句の、あの極小の完全性、すなわち、まったく無粋を感じさせない言語活動だと思っています。

私は詩の専門家でもなくて、以上のことはどこかで誰かも言っていたような話に他ならなくて、これ以上、詩自体について特にいう事はありません。私は、これまで詩作を行ってきたことはありませんでした。今後、もし詩作を行うのであれば、どうしようかについてをここで少しだけ考えてみようかと思います。

逆説的に、世の中に、優れない詩があるとして、それがどんな詩であるかを考えた場合、私が考えるのは、それが抽象的・空想的なことを言い過ぎて内容がよくわからない、というような詩であると思っています。
なんだかとてもセンチメンタルなことを言い過ぎている、具体を避けすぎて規模感が大きすぎる言葉が散乱している、そしてそこに風景よりも詩を書いている作者の歪んだ作為を感じる、というような場合でしょうか。
やはり詩は、そして創作は、読んでくださる皆様にわかってもらえることが重要なのかもしれない、と、いよいよ私は考えが改まってくるのです。これは皆々様に媚びを売っているわけではありませんよ、本当に優れたる創作とは何かを考えて、そう思えてくるのです。それを、これこそ優れたり!、と思えてくるのです。これが人間のなせる業か、と慄くのです。

まとめといたしまして、私はそうした活動を今後、心がけたいと思います。短い詩でも、長編小説でも関係なくて、無粋を退けて人の心を打つものがいつか描けるようになりたいと思い、そうした観点を探すべく、今日も世界を見つめているこの頃です。

最後に、御戯れにですが、漢詩を一本書いてみました。読んでみてください。これだけ偉そうに、優れた詩とは何か、駄目な詩は何かを偉そうに語ってきたのですから、自身の姿形を晒さずにいておくことは、決して善い姿勢とは言えません。何より、私の詩に対する意見を皆さまに投げかけて、自身の詩の敷居を悪戯に高めてから辛辣な評価を下されることを、なぜか心待ちにしています。是非、ご一読とこれまでの詩論とのご検討をいただければと思います。以下、私の七言絶句の漢詩です。

死魚散岸我独行
腐臭難比孤意哀
遠見愛人彼不知
向海無由独自行

令和6年度、六月下旬、梅雨、
執筆者、小此木清子




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