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トロッコの正体

前回の終わりに、渡辺一夫の評論「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」に言及しておいた。しかし、不誠実な私はそれを読んだことがなかった。これはいけないと思い、いそぎ岩波文庫『狂気について』を入手して、当該の評論を読んだところ、この一連の記事において私が論じようとしていることがそこに、すでに、しかも豊かな傍証と、美しい文体と、深い体験とを伴って書き込まれていることが分かった。それ故、本記事にいささかなりとも関心を抱く読者で、まだ渡辺の文章を読んでいない方には、まずこれを閉じ、渡辺の文章を繰り返し味読されることを勧める。

前回の記事に頂戴したコメントに対して、私がした返答の中で、発展させるべき含意のある事柄を、改めて記しておく。
一つは、トロッコ問題という思考実験において、私がとりわけ重要だと思う点は(これは倫理学説としてのトロッコ問題においてもそうであろうが)、二者択一の内容が、多数者か少数者かというものであると同時に、というよりもむしろ、多数者を見殺しにするか、少数者を自らの意志で殺すかというものである、ということだ。仮に、多数者のために少数者を犠牲にすることが「正義」だと見做されるとしても、「正義」の執行のためには少数者の死という重荷は自らの双肩にのしかかってこなければならない。反対に、自分が何もしなかったせいで大勢が死んだ場合、その責が直接自分に降りかかってくることはない。差し当たりは、そのような状況に自分は投げ込まれたのであり、どうにかしようとしたが何もできなかった、という形で、自己弁護することができる。少数者を殺す選択は、多数者を救うという意志に基づくとはいえ、やはり殺意であるに変わりはない。
もう一つは、より一般的な次元の話だが、考えるには忍耐が必要だということである。だからまず、我々は、考えることに耐えかねて安易な結論に縋り付くべきではないし、忍耐を失ってしまった人々に対しては、一層忍耐強く接さなければならない。トロッコ問題についてもそうであって、レバーを引くべきか否かを早々に決めてしまおうという態度は、もうこれ以上これについて思い悩まないで済むようにしてしまおうという現実逃避に他ならない。より多くの人が、この世界の現実について悩み苦しみ続けるよう、願ってやまない。それこそが、この世界の苦悩を逓減させる唯一の道である。

さて、「犠牲に反対する人は、犠牲をなくすために犠牲を求める人を犠牲にすべきか」。この問いは、一層抽象的に、以下のように言い換えられる。「非暴力主義は、暴力をなくすために暴力に対して暴力を用いるべきか」。この表現は、M・L・キングやガンディーを、また、マルコムXや多くの(というのは、暴力革命に肯定的な)マルクス主義者を想起させる(マルコムXやマルクス主義者を「非暴力主義」と呼ぶのには異論もあろうが、差別や搾取をなくそうとしているという点においては、いずれも「非暴力主義」と呼びうる)。前者なら、答えは「否」であり、後者は「然り」である。マルコムXとマルクス主義者を並べることは、どれくらいあるか知らないが、マルコムXは、キングやガンディーに比して、内心よりも社会のあり方を変えることを考えていたように思われる。このことから、人間の内心を重く見る立場からは、一切の暴力の否定が導き出され、社会のあり方を重く見る立場からは最低限度の暴力の容認が導き出されるということが、推測される。

後者の立場によれば、暴力を支えているものたちは、自らの暴力を意識することができず、自らの暴力を否定するような力を全て暴力だと感じる。
例えば、人種差別主義者は自らを人種差別主義者だと考えず、人種統合政策を、自らの生存を脅かす暴力だと考える。あるいは、ブルジョワジーとプロレタリアートでは、それぞれの経済的基盤に基づいて異なったイデオロギーがあって、それは、経済的基盤が変わらない限り本質的には変わることはない。
上記のような例においては、はっきりと異なる二つ以上の人間集団があって、根本的には理解し合えないものだということが、前提とされている。
しかしこれは明らかに誤りである。マルコムXに共感して仲間になろうとした白人もいたし、労働者の待遇を苦々しく思う資本家もいる。無論、それでも本当の苦しみは分かっていないのだと突っぱねることもできようが、それだけの理解でも、自らに不利な社会変革を正当なものと認めるには十分ではないか。つまり、社会的に有利な地位にあるものは、不利な立場のことを本当に、心の底から思いやることは困難であるとしても、自らの地位が彼らのために貶められることは不当なことではないと、苦々しくであれ認めることは、可能だと思うのである。
確かに、説得の限界も考えられる。自分は右へ行きたいが、左へ行かなければ隣のやつに殺されるに違いないと全員が思っている集団のような、集団心理の暴走した場合、または、激しい混乱状態のせいでパニックに陥ってしまっている場合、などである。しかしそのような場合においては、その状況を変えることは、暴力と呼び得ないであろう。そういう場合は、有力者が自ら席を譲るということが起こり得ないだけである。

話を戻せば、「より多くのものを害さないための不可欠な手段として、より少ないものを害すること」は、どこまでも避けるべきである。トロッコに象徴されるものの正体、即ち、私が少数の何者かを傷つけなければ多数の人々を傷つけるであろうもの、とは、暴力的な社会制度や暴力に加担する人々、場合によっては時間(つまり、今社会を変えなければ改善は大幅に延期されるであろう、という場合)である。現存する暴力によって人々が苦しむよりも、それに新たに暴力を加えることは、何よりも呪わしい。現存する暴力は、飽くまでも非暴力的に解除されるべきものである。

蛇足だが、「より多くのものを害さないための不可欠な手段として、より少ないものを害すること」という規定に即して同様のことを裏付けよう。この規定について考えた時に第一に気づかれるのは、「不可欠な」というのは何を根拠にして判断されるのか、ということである。現実において、ある結果を避けるためには必ず何かをしなければならないとはっきり分かることは無いに等しい。今はそう思っていても、実はそうでないという場合だってある。トロッコ問題に引き戻せば、レバーを引く/引かない以外にも、何か行動のしようはあったのではないかということである。
次に、「害する/害さない(これは、苦しめる/苦しめないという表現のほうがよかった)」という点だが、いかなる場合にも人殺しは人倫に悖るということを、取り敢えず承認してもらうならば、少数者を殺すべきではなく、殺すまでではなく苦しめるという場合には、その程度の苦しみは当人の人格を歪めるものではないと、言い換えれば、その苦しみを受けた後で、彼が正常な判断能力を保持し、平和な関係の構築に参与しうると思われる程度においてのみ、それも必要に限り、そうすべきだということになろう。戦間期のドイツのように、懲罰ないし賠償の名の下であまりに苦しめられると熱狂に陥ることがある。
そうした、例外的な場合を除いては、何者かを故意に苦しめることは避けられねばならないし、その場合に苦しめられている多くの人々は、だからといって当然等閑視されるべきではなく、忍耐強く解放を求め続けなければならない。
だから、敢えてトロッコ問題の解答らしい形で言うならば、「(単なる適正な懲罰といった場合を除き)レバーを引いて少数者を苦しめてはならず、大勢の人々の苦しみに無関心であってもならない。大勢の人々と苦しみを共にしながら、着実に苦しみがなくなる道を、共に模索し続けなければならない」ということになる。

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