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卒倒読書のすすめ 第五回 アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』

主人公ヴィクトルは憂鬱症の皇帝ペンギンと暮らしている。

この設定だけで百点をあげたくなる。皇帝ペンギンがどんな動物か知らない人は一度、この文章から離れて画像検索をしてみてほしい。そしてずんぐりとして目がどこにあるかもわからない、人間の子供くらいの大きさのその姿に、憂鬱症を当てはめてほしい。そんなペンギンが膝に白いお腹を押し付け、甘えてきたらどうだろう。きっと、あなたも百点って思うんじゃないかな。

さて、ちゃんとあらすじを。

売れない小説家のヴィクトルはガールフレンドが出て行って、憂鬱症のペンギン、ミーシャと暮らしている。ソビエトが崩壊し、マフィアの影が付き纏う時代、窓の外の街では銃声が聞こえる。不眠に悩むミーシャは夜中にペタペタと部屋中を歩き回っている。小説を書こうと思っても、ヴィクトルが書けるのは短編ばかり。それでもアパートの一室で、孤独なペンギンのミーシャと孤独な人間のヴィクトルは冷凍魚とジャガイモを食べ、寄り添いながら生きている。そんな中、ヴィクトルはとある新聞社からまだ生きている人間の追悼記事をあらかじめ書いておく仕事を依頼される。新しい仕事に楽しさと喜びを感じるヴィクトルだったが、やがて自分が追悼文を書いた大物たちが次々と死んでいく……

ソ連が崩壊したばかりのウクライナが舞台であるこの小説。追悼文を書くという仕事には常に政治的暗躍と不気味さが漂っているし、知らず知らずのうちに犯罪に加担しているのではないか、自らの命も危ないのではないかというサスペンス感が物語全体に漂っている。しかし、この小説の面白いところはそれでもヴィクトルの日常が続くというところである。なぜならば、ヴィクトルは常に中心人物として犯罪を行わないから。依頼されたものを書き、身を隠せと言われれば数日間、知り合いの別荘に身を隠したりする。不安に襲われることもあるが、たまに降りかかる不条理を別にすれば、金もあり仕事もある、食うには困らぬ日常なのだ。日常に溶け込む犯罪、それを描いているのが面白い。巨大な力のもと、自分では生活を変えることはできない。真実を知ろうとすればすぐにでも日常は崩壊するし、主人公はそれを率先して行うような正義感あふれるヒーローではないからだ。

それにしてもよからぬ世界のよからぬこととは何なのだろう。自分の知らない巨大悪のごく一部ではないのか。その悪はすぐそば、すぐ近くに存在しているが、彼個人やその小さな世界を侵すことはない。たとえ何かよからぬことに関わっているとしても、それをまったく与り知らないのであれば、それこそ彼の世界がゆるぎなく落ち着いている保証なのではないか。

ソビエト崩壊後の街の不穏さは、どことなくこれからの日本を想定させるところがある。不安定な時代の中、ヴィクトルは自分の人生がしっくりこないと感じている。しかし、それを打開する策は思い浮かばないし、そのしっくりこない人生の小さな日常を壊さぬように生きている。他人の人生を決定するのは容易く、自分の人生を決定するのはそれよりはるかに難しいからだ。

何のとりえもない人間は、生きていくこと自体つまらなくなったというのだろうか。気晴らしをしようにも、このご時世は高くつく。
今の世の中、子供時代を過ごすのは大変だし、いたいけな子供にはあんまりだ。この国も奇妙なら、ここの生活も奇妙だ。でも、なんでそうなのか理由を知りたいとも思わない。ただ生き延びたいと思うだけだ……。
急にむなしさを感じた。小説はどれもそれこそはるか遠い過去のことだったから。あまりに遠くて本当に自分の過去なのかと疑ってみたくなるほどだ。もしかして本で読んで忘れていたことをふと思い出して、自分自身の体験のように思っているだけなんじゃないだろうか。
(中略)現実に戻ると余計なことをあれこれ考えている暇はなかった。これからも生活は続いていくのだ。

南極で群れで生きているはずが、群れと引き離され南極からは遠く離れた土地で暮らすことになったペンギン。イライラ、憂鬱、不眠、心臓病などのあらゆる疾病を抱えながら、他人の孤独を見据え、自身の孤独を寄り添わせ生きているヴィクトルとペンギン。私たちも彼らと同様に不信感や死の恐怖、脅かされる生活のなかでも生活をしなければならない。南極にたどり着くすべを探しながら、その中で憂鬱を抱え生活している、ヴィクトルとペンギンは隣人であり私たちなのだ。


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