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道の駅めぐりと慰霊の旅(毎日note164日目)

先日、両親と道の駅めぐりと、震災の被災地めぐりをしてきた。


初っ端から自分語りで恐縮だが、東日本大震災発災時、私は高校生だった。

ちょうど入試シーズンで、学校の授業は休み。
校内立ち入りはできるようになっており、その日は部活があった。
しかし、虫の知らせを聞いたのか、その日は部活を休んでいた。

14時46分。
部活に持っていく用に母が作ってくれた弁当を食べ、その当時家にあったパソコンでネットサーフィンをしていた。

突如、母と私のケータイから激しい警報音が。
その直後にあの尋常じゃない揺れがやって来た。

母と2人で、玄関に続く短い廊下にに逃げ込み、廊下に垂直に座り込んで揺れがおさまるのを待った。

「やめてー!」「じいちゃん助けてー!」

そんなことを2人で叫んでいた記憶がある。

元々記憶力があまりよくないのもあるが、そこから先のことはあまり覚えていない。

ところどころ覚えているのは、家族4人で車に寝泊まりしていたこと。
夜、NHKの深夜ラジオ便を流しながら寝ていたところ、激しい余震に襲われた記憶がある。

母親が働いていたコンビニで、まだ売れる商品に値札を付ける手伝いを弟とした記憶もある。
母と弟と3人で、自転車で15分のところのスーパーに買い出しに行った記憶もあった。

節電のため最低限の照明で放送されたMステに、タッキー&翼が出演しており、「愛はタカラモノ」を歌唱していたことも覚えている。

……なーんだ、思ったよりも覚えてるじゃん。

自宅は内陸にあったので、大きな被害はなかった。
家族も全員無事。

しかし、周りはそうではなかった。
沿岸部に家があったので、全て流されてしまった友人がいた。
中学の時の同級生は、母親が勤め先の近くで波に飲まれてしまったという。

部活の先輩も、あの波に攫われてしまった。
先輩と言っても、直接関わったことは無かったが、仲間を失うということはとても辛いことだ。


「道の駅めぐりをしたい」と言い出したのは母だった。
あと一駅行けば、宮城県内にある道の駅を全て制覇するらしい。

朝8時過ぎに家を出て、訪れたのは「道の駅 硯上の里おがつ」。
ここがあと一駅だったらしい。
比較的最近できたところらしく綺麗な建物だった。

宮城の小学生なら勉強するだろうが、雄勝といえば硯。
たくさんの硯や、雄勝石で出来たお皿などが飾られていた。

近くまで来たのだからということで、「旧大川小学校」にも向かった。

当時、校内に残っていた78人のうち74人が犠牲になった小学校。

たくさんの子供たちの笑い声が響いていたであろう
波の威力でへこむスピーカー
渡り廊下が倒されるほどの波の威力
すごく印象的だった
ここで授業をしていたのだろう

この集落にも、生活があり、子供たちの笑い声が響いていたはず。
それが、あの瞬間一瞬にして失われた。

小学校の隣には「大川震災伝承館」があり、当時のことを知れる展示物を見ることが出来る。

あの時で止まったまま

知れば知るほど、あの波に飲まれた人たちのことを思い、胸がぐっと締め付けられる。

その後、私たちは「道の駅 上品の郷」に行き、お昼を食べた。

昨年、「道の駅グランプリ2022」で全国2位に選ばれたこの駅。
温泉があることでも有名だ。

鯖だしラーメン

足を伸ばして、私たちは次に陸前高田へ。
高田松原津波復興祈念公園内にある「道の駅 高田松原」へ。

ここでも、被害を伝える様々な展示を見てきた。

そして、陸前高田といえば「奇跡の一本松」。

逆光……
ちゃんと撮れた

この一本松の下には、当時ユースホテルとして使われていた建物が残っていた。

この2つ以外、周りには何も無かった。
それがまた逆に、この被害の大きさを物語っているような気がした。


今回、図らずとも被災地をめぐる道の駅めぐりとなった。

東北に住んでいるとはいえ、知らないこともまだまだたくさんあった。

今日で震災から12年半。改めてあの日に思いを寄せたい。

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