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母が死んだ

2014年7月
いまから約7年前に私の母は死んだ。

子宮頸がんStage4
化学療法、放射線治療全てやった。
やれるだけの治療はやった。
でも治らなかった。

リンパはもちろん骨メタ、脳メタ。
メタメタだらけ。

母はあとどれくらい生きられますか?
ドラマでよく使われるセリフを自分が言った。

余命宣告「もってあと3日〜頑張って1ヶ月」

私の誕生日が8月だったのであと1ヶ月…
お願いだから生きてお祝いしてほしいと願いました。

でも本人は生きていることで精一杯。
なんなら早く死にたかったんじゃないか。
メタだらけで全身が痛いからベッド上で暴れます。
その度にレスキューで疼痛緩和していきます。
でも家族はベッド上で暴れる母の姿にびっくりすると同時に麻薬を使われることに対して嫌悪感を抱いていました。
私も少し暴れだす母が怖かった。
でも本当に恐かったのは母がこの世からなくなること。

大丈夫。大丈夫。
そう言い聞かせて落ち着かせる。
私は強がりなので家族の前では泣きません。
余命なんてわからないよ!
まだお母さんは生きてくれるよ!
なんて言ってましたね。

深く眠らせ苦しく無いようにしていくための
鎮静がはじまりました。

おかあさん?
聞こえてる?
みんなそばにいるからね
たくさん友達が会いにきてくれたね
おかあさん友達多いんだね
幸せ者じゃん
今日も隣で寝るね

下顎呼吸

お願い
まだ死なないで
さみしいよ

生命の終わりは突然。
私と兄が病室に到着して約10分後。

20時10分。

母は大きく息を吸って心停止。

息を吐いてしまうのがもったいなかったんでしょうか笑

私は母にこう伝えました。

辛かったよね。よく頑張ったね。
私がここに来るまで待っていてくれてありがとう。
産んでくれてありがとう。
絶対立派な看護師になるね。
夢を与えてくれてありがとう。
お母さん大好きだよ。

聴覚は最後まで残っていて
全部受け取ってくれたと信じて。

でも私の心の中には
やっぱり生きていてほしかった
元気じゃなくてもいい
息さえしていてくれればそれで

と思う反面

やっと楽になれたね
辛かったよね

と思う気持ちが混在した。
その時は後者の気持ちを抱く自分がサイコパスかと思った。

でも前者、後者、どちらもあって当然の感情。
今までの母の闘病を見ていたからこその感情。

私は看護師を目指していたので
一緒に死後のエンゼルケアをさせてもらった。

手は冷たい。
でも身体はまだ暖かい。
心臓動いてないのかな。
末端から冷えていく。
暖かいままがいい。

霊安室に降りて搬送車を待った。
祖母も兄も母の隣には乗れないと言った。
なんで?おかあさんだよ?
私が母に付き添った。

家に着いて座敷に布団を敷く。
北枕で寝かせる。
冷房をつけて腐食を防ぐ。

葬式までは時間がありました。
毎日お母さんの隣で寝た。

え、今動いた?
生きてる!
そんなわけないか。

なぜか表情や手が動く様に見えるんです。
私がおかしいわけではなくみんなそう見える様です。


安置している間、日々入れ替わり立ち替わりたくさんの人がお母さんに会いにきてくれました。

本当に友達が多くて人望が厚くて
家に来る人も参列する人も多すぎて
会場の椅子が足りなくなりました。

おかあさんって愛されてたんだ

私にとっては自慢の母親
母が私の母でよかった
自分も母になったとき
子供が胸を張ってくれる母になりたい

今まで大切に育ててくれてありがとう
安らかに眠って。
空からずっと見守っていてね。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
母の死は人生で1番のイベントで分岐点となりました。
強くなれたかはわからないし強くなることが偉いとも思っていませんが、その経験が自分の事を豊かにしてくれると思って生きていこうと思いました。
今ではネガティヴに捉えることはありません。
人の死に直面している全ての人に私の体験を読んでいただき少しでも前を向いてくれたり共感していただけたら嬉しいです。

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