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ラテンの作品の根底にあるキリスト教哲学
こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。
今日は、キリスト教のお話をしようかと思います。
ラテン諸国の芸術、
そして私達「墓の魚」の作品の根底に流れている
キリスト教精神のお話です。
西洋(特に南欧)、ラテン世界には
(カトリック系)キリスト教精神が根付いています。
多くの芸術に、それは多大な影響を与えており、
ラテン音楽を作曲する私は、
もともとその哲学に興味があって、
この世界に足を踏み入れたと言っても過言ではないのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1674020315133-K0HAy5X3dm.jpg?width=800)
信仰というと日本では敬遠されがちですが、
キリスト教は、信仰という形だけでなく、
哲学という形で芸術に関わっていると私は思います。
さて、以下を抑えておくと、
キリスト教文学がより理解でき、楽しめるかもしれません。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/13658346/picture_pc_8fd8e46d791f73f5fc4ad58b06e4fc1d.jpg?width=800)
キリスト教においては「神を信じる」という心が、
とても重要なキーワードとなっています。
何しろ、それが神から与えられた試練でもあるのです。
ただ信じるだけではありません。
信じる事ができなくなるような出来事、
信仰を失うような事件、
神を信じられないような現実の中で、
それを乗り越えて、それでも信じ続ける事ができるか?
という事がキリスト教徒にとっては重要な事なのです。
つまり、平和な世界の中で、
ぬくぬくと信仰しているよりも、
むしろ、信仰の危機こそが、神が人間を試している出来事なのだと
キリスト教徒達は考えます。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/13658370/picture_pc_bdf1557c8219d61962307b8ed6f885d6.jpg?width=800)
さてさて、
これはキリスト教、宗教でなくても、
当てはまる事ではないでしょうか?
つまり我々の日常の中で、
「夢への実現を信じる事」
「友人を信じる事」
「自分の信念を信じる事」
というのは、
平和の中でなく、危機の時でこそ、
その本質を問われるという事です。
この辺りが
ラテン、スペイン作品では、よく題材とされます。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/13658386/picture_pc_c893b7408e53986f0ea3e7354c449143.jpg)
それは例えば、本当に強い戦士というのは、
自分が絶対に勝てない大軍の前(戦局)で
笑う事ができる者の事であって、
自分が絶対に勝てる相手にしか笑えない者は、
真の意味での強者とは言わない、という事と同じです。
穏やかでゆとりのある環境では、
大きな夢を語っていたのに、
経済的に本当に大変な時に、夢を捨ててしまう様な人間は、
夢を叶える者ではないという事です。
「墓の魚」の劇の中の台詞で、
こういうものがあります。
「もちろん、君に何の落ち度があったか、
無かったかは知らないがね。
人生とは落ち度が無くても、
こういう場面に、何度か出くわす事があるって事を覚えておくんだ。
そういった時にこそ、戦士なら資質だとか、
百姓なら信仰だとか、
こそ泥なら度胸だとか、
あるいは魔女なら魔力だとかが問われるのだ。
理不尽に見える時こそ、
道理を貫く馬力が必要なのだ。」
これをひねくれて考えると、
もし「神がしっかり実在している世の中」で、
神の存在性とご利益が保証されていたら、
神を信じる人間達など、信者でも何でもなく、
それは利益にすがろうと、あやかろうと、
現実に媚びうる輩達でしかないのです。
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/13658410/picture_pc_8328e1048f28b82506edea6eb0b8b4d7.jpg?width=800)
神がいるかわからない・・
むしろ存在しない!?
と言われているこの世の中で、
それでも信じる何かを持つ者こそが、
本当の意味で信者であり、
利益でもなく、損得でもなく、
信仰心を持つ者なのでしょう。
聖書でイエスが語った言葉があります。
「わたしを見たから信じたのか?
見ないのに信じる者は幸いである」
神はよく南欧文学の物語の中で、
乞食の姿をして、人間の前に現れます。
そして信仰に篤いはずの者達が、
その乞食を粗末に扱うと、
真の姿を現して、彼らを嗜めるのです。
「あなた方は私を愛する者達ではなかったか?
私を愛するという事は、
目の前のただの乞食を愛するという事なのだ。」
と。
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/13658428/picture_pc_7a81ee4f75b815f73d5d4e0611a20aa9.jpg)
こういった表現は非常にルシタニア芸術的であり、
イベリア文学の中で
何度も何度も繰り返し出てくるテーマです。
神を愛するという事は、
世界を愛するという事。
なぜなら神は世界であり、
その中には残酷な悲しみも含まれます。
悲しみや理不尽を受け入れず、
喜びしか認めない者は、
利益にすがる者でしか無い
という精神が
イベリア(南欧)文学の中にはあります。
あえて悲喜劇的な現実の中で、
物語を皮肉に生々しくシニカルな位置に置き、
しかし、その中で動く人間の心中に、
真の純粋な信仰の姿を見せるのです。
先程の乞食の話や、上記の世界の話は、
以下の様な話に言い換える事もできます。
本当に芸術を愛する者は、
成功し、社会から勲章を授与されたピカソやゴッホの絵でなくとも、
目の前の薄汚い芸術家の作品にも感動するはずです。
しかし、その無冠の芸術の良質さを
我々が見極める力を持たない。
(我々は何が真の尊さなのかを見つける事ができない)
そこに葛藤の物語があるわけです。
信仰の物語がいつも手探りなのと同じ事ですね。
それは、前提となっている社会、
この世の価値観に
いつも疑問を辛辣に突き付けるイベリア文学の
支柱を支えている精神だと思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1674020196979-OFwUY6FTW2.jpg?width=800)
というわけで、
そんな視点でラテン作品や、
私達「墓の魚」の作品を見てみると、
また違った面白さがあるかもしれません。
最後に「墓の魚」の作品の詩を載せますね
「諸君、主はいない
確かにこの世界の何処にも・・・
恐らく永遠に。
しかし、その事実を理解し、突きつけられても
なお十字架を背負った男がキリストなのだ
それこそが信仰であろう?
だからこそ主は、
実在せず、密かに
我々の信仰心を愛するのだ」
(「墓の魚」のオリジナル曲↑)
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