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シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』(読書メモ)

 シモーヌ・ヴェイユ『須賀敦子の本棚8 神を待ちのぞむ』(今村純子訳、河出書房新社、2020年)の読書メモ。

 ヴェイユは以下のことを求める。人間が神を愛する愛は、神が人間を──いや神自身を──愛する愛に釣り合うものでなければならない。いかに不可能な要請であるとしても、それはヴェイユにおける定言命法のごとき地位を譲ることがない。神が人間を愛することは、いわば、無限の距離を「横切って」神がわたしたちのもとに到来することである。あるいは、すでに充溢し満ち足りた神に神自身が欠如を持ち込むことであり、ヴェイユにおいてそれは創造行為に等しい。ヴェイユはそれを神の「狂気」とさえ述べている。だから人間もまた、こうした「狂気」に厳密に応じるようにして、無限の距離を「横切って」神のもとにまで赴かねばならないというのだ。
 では、どのようにしてか。その方法論的な中心となるのが、注意(attention)である。眼差しを一点に集中させること。精神の全体を一つの問題に関与させること。それが注意である。だが同時に、ヴェイユにおける注意とは、〈わたし〉というものを、〈わたし〉の個性を、〈わたし〉と言う能力を徹底して手放してゆくプロセスにほかならない。注意は、自己を放棄すること、空虚なものとすることを意味する(それこそ「神を待ちのぞむ」ことであるが、同時に、神のほうがわたしたちを「待ちのぞんでいる」のでもある)。そうして魂のなかにぽっかりと空いた場所へ、神が神自身を愛する愛が流れ込んでゆく。そのとき人間は、神の愛の「通り道(passage)」となる。もちろん、ここでヴェイユの背景にあるのは、『エチカ』第V部の定理36における「神への知的愛」をめぐるスピノザの記述であろう。


本書の構成

手紙
 手紙I 洗礼を前にしたためらい
 手紙II(承前)
 手紙III 出発について
 別れの手紙
 手紙IV 精神的自叙伝
 手紙V 知的な召命
 手紙VI 最後に考えていたこと
 手紙VIへの返信(ペラン神父)

論考
 神への愛のために学業を善用することについての省察
 神への愛と不幸
 神への暗々裏の愛の諸形態
 「主の祈り」について
 ノアの三人の息子と地中海文明の歴史


手紙I 洗礼を前にしたためらい

洗礼を受けないこと、「水準」の問い

精神性のある水準以上にいる人だけが、秘跡そのものとして秘跡に与ることができるのだとわたしは思っております。この水準以下にいる人は、その水準に達していないあいだは、秘跡に与っていても、厳密に言えば、教会に属していません。わたしはと言えば、この水準以下にいると思っております。そのため、先日あなたに申し上げましたように、わたしは自分を秘跡に値しないとみなしております。

73頁

 洗礼の秘跡を受けないことは、公的にはカトリック教徒にならないことを意味する。終生、教会のなかに入ることのなかったヴェイユは、その理由を、端的に自分は洗礼を受けるべき「水準」に達していないから、としている。

「純粋愛」的な確言

神に従順であることで地獄に堕ち、神に不従順であることで救われるということが考えられるとしても、それでもやはりわたしは、神に従順であることを選択するでしょう

74頁

フェヌロンやフランソワ・ド・サルが述べていてもおかしくはない、「純粋愛」のごとき断言。キリスト教神秘主義における「純粋愛」──どうして愛するかという理由や動機なしに無条件で神を愛すること──の思想は、しばしばこうした極言的で誇張的な語り口を用いる。

人々のうちに消え去ること

ともかく、具体的に、近々ありうることとして、自分が教会に入ってゆく行為を思い描くとき、信仰をもたない大勢の不幸な人々から離れてしまうと考える以上に、わたしを苦しめるものはありません。人間のあいだで、異なる人間の環境のあいだで過ごすことを、わたしは本質的に必要としており、それを召命といってよいと思っております。それは、その人たちに紛れ、同じ色彩を纏い、少なくとも意識がそれに反しないかぎり、その人たちのあいだで消え去ることによってです。それは、あるがままで、わたしに対して装わないで、その人たちが自らの姿を見せることができるためです。その人たちをあるがままに愛するためにその人たちを認識したいとわたしは願っているのです

75頁

無名にとどまること

わたしは自らのうちに犯罪の可能性を感じていたのです。犯罪がわたしを恐れさせたのは、わたしが犯罪の可能性を自らのうちに感じてさえいたからです。この本性の資質は危険であり、とても苦しいものですが、あらゆる種類の本性の資質と同様、恩寵の助けに適って使用する術を心得ているならば、この本性の資質は善に役立つことができます。この本性の資質は、言うなれば、無名に留まるという召命が、どんなときでも、一般的な人間の気質とすぐに溶け合うことを意味します。

76頁

教会への愛

ですがわたしは、わたしが愛するすべての教会とのつながりを超えて、いかなる程度においても、厳密に言って、教会への愛をもっておりません。教会を愛している人に共感することはできますが、わたし自身は教会への愛を感じていないのです

77頁

絶対に確かなこと

おそらくまた、わたしの人生は、教会に入りたいという衝動を一度も感じることなく終わるでしょう。ですが、ひとつのことは絶対に確かなことです。それは、洗礼という恩寵に値するほど充分に神を愛する日がやってくるならば、まさしくその日に、飽くことなく、神が望むかたちで、いわゆる洗礼という手段によるにせよ、まったく別の仕方でにせよ、わたしはこの恩寵を受け取るでしょう。そのとき、わたしはどうして不安を感じるでしょう。わたしについて考えることは、わたしにかかわる事柄ではありません。わたしにかかわる事柄は、神について考えることです。わたしについて考えるのは神に属することです。

78頁

手紙IV 精神的自叙伝

神を探し求めないこと

全生涯に亘って、いかなる瞬間にも、わたしは神を探し求めたことは一度もないと申し上げることができます。おそらくおのために、といってもこの理由は多分に主観的すぎるでしょうが、神を探し求めるという表現は好きではありませんしわたしには偽りのように思われます

102頁

確信

一四歳のとき、思春期の底なしのその絶望のひとつに落ち込みました。そしてわたしは自分の生来の能力の凡庸さのために、死ぬことを真剣に考えました。パスカルに比肩される幼少期を送ったわたしの兄の驚くべき才能が、わたしをそう意識させたのです。外的な成功が得られないのを悔やんだのではなく、真に偉大な人間だけが入るべき、真理が住まうあの超越的な王国に近づくのをいっさい望めないことを悔やんでいたのです。真理なく生きるよりは死ぬほうがましに思えました。内的な暗闇の数ヶ月を過ごした後、突然、そして永遠に、こう確信したのです。どんな人間でも、たとえその生来の能力がほとんどなくても、ただ真理を欲し、そして真理に到達する注意力の努力を絶え間なくするならば、天才に約束されている真理のあの王国に入り込むのだ、と。たとえ才能がないために、この天才が外的に目に見えることがなくとも、その人もまた天才となるのです。

104頁

ごみ、できそこない、くず

ですがおそらく神は、ごみできそこないくずを利用するのを好まれます。結局のところ、聖体拝領のパンにはカビが生えるでしょうが、それにもかかわらず、司祭によって聖別された後は、キリストの〈身体〉となるのです。

114頁

「主の祈り」ギリシア語での暗誦

「主の祈り」の暗誦の効果は驚愕すべきもので、毎回わたしを驚かせます。というのも、わたしは毎日暗誦するのですが、その効果は毎回わたしの期待を上回るからです。最初の数語がもうすでにわたしの思考をわたしの身体から切り離し、遠近法も視点もない空間の外側の場所にわたしの思考を置くこともあります、空間がひらかれます。知覚による通常の空間の無限性が、二乗された、あるいはときには三乗された無限性によって置き換えられます。同時に、このかぎりない無限性は沈黙によって隅々まで満たされます。音の不在ではない沈黙積極的な感覚の対象である沈黙音の感覚よりも積極的な沈黙によって満たされるのです。もし騒音があるならばそれは、この沈黙を通り過ぎた後でなければわたしに到達することはないのです。「主の祈り」の暗誦のあいだ、あるいは他の瞬間、キリスト自身があらわれ、しかもそれは、キリストがわたしを最初に捕らえたときよりもいっそうかぎりなく現実的なあらわれをもって、いっそう胸を突き、いっそう明晰に、いっそう愛に満ちたあらわれであることもありました。

113頁

キリスト教とキリスト教以外のあいだ

[……]もし、生まれたときから佇んでいる、キリスト教とキリスト教以外のすべてが交差する一点を離れてしまうならば、わたしは、真実を、すなわち、わたしが見て取る真実の様相を裏切ってしまうでしょう。

118頁

受肉について──対立するものの均衡

キリストの受肉は、個人と集団とのあいだの関係の問題を調和的に解決することを意味します。ピュタゴラス的な意味における調和です。相反するものの正確な均衡です。この解決は、人間がまさしく今日渇望しているものです。

120頁

真の会話

真の会話は二三人のあいだにしか成り立たないということは広く知られています。五、六人ならば、すでに集団の言語が支配し始めます。そのため、「あなたがたのうちの二人か三人がわたしの名のもとに集まるところでは、わたしはそのなかにいるでしょう」〔マタイ18.20〕という言葉を教会に当てはめるならば、完全な錯誤がなされています。キリストは、200人とも、50人とも、10人とも述べていません。二人か三人と述べたのです。まさしく、そう述べたのです。キリスト教的な友情の親密さにおいて、一対一の親密さにおいて、自分はつねに第三者の立場にいるのだ、と。

122頁

手紙VI 最後に考えていたこと

ありえない仮説

ありえない仮説ですが、深刻な過ちを一度も犯すことなく死に、それにもかかわらず、死に際に地獄の底に堕ちるとしても、それでもやはり、わたしの現世での生のために、神のかぎりない慈悲に対してかぎりない感謝をわたしは神に負っているでしょう。わたしがあまりに不出来な被造物であるとしてもそうです。このありえない仮説においてすら、それでもなお、神のかぎりない慈悲深さのなかで、わたしの分け前すべてを受け取っていると考えるでしょう。というのも、現実の、永遠の、完全な、無限の歓びを実体としてもちつつ、神を愛し、神を思い描く能力をすでにこの世でわたしたちは確実に受け取っているからです。このことに関してあらゆる疑いを消し去るために、肉体というヴェールを通して、高みから、わたしたちは充分永遠の予感を受け取っています。

139頁

不幸にあらわれる神の慈悲

神の慈悲は、不幸においても、歓びにおいてと同様に、否おそらくそれ以上にあきらかです。なぜなら、神の慈悲は、不幸という様相において、人間のものによるどのようなアナロジーももたないからです。

137頁

外側から宇宙を愛する眼差し

魂が宇宙すべてをひとしく満たす愛に至るとき、この愛は、世界という卵を突き破る金の羽をもった雛鳥になります。その後は、内側からではなく、外側から、わたしたちの長兄たる神の〈叡智〉が居を構える場所から、愛は宇宙を愛します。こうした愛は、神のうちなる存在や事物を愛するのではなく、神がいますところから愛するのです。神の傍にいて、そこから魂は自らの眼差しを下げて、神の眼差しと混じり合いつつ、存在すべてに対して、事物すべてに対して、自らの眼差しを向けます

147頁

神への愛のために学業を善用することについての省察

注意──思考を宙吊りにすること

注意力は、その人の思考を宙吊りにし、自由なままにし、真空にし、対象に入ってゆけるようにすることにある。そして、用いるよう仕向けられている獲得された多様な認識を、思考の近くではあるが、思考よりも低い次元で、思考と接することなく、注意力それ自体のうちに保つことにある。思考は、すでに形成された個別の思考に対して、山頂にいる人のようでなければならない。山頂にいる人は、自分の眼前のものを眺めながら、同時に眼下に広がる森や平原を眺めはしないが、それらを視野に収めている。そしてとりわけ思考は、真空の状態で、待機の状態で、何も探さず、だがその赤裸々な真実において、思考に入り込んでくる対象を受け取る準備ができていなければならない。

170頁

探し求めることなく、待機すること

もっとも貴重な善は探し求められてはならず、待機されねばならない。というのも、人間は自分の力でもっとも貴重な真理を見出すことはできないからである。

171頁

神への愛と不幸

神の愛、神への愛、神が神自身を愛する愛

愛は、創造された愛によって被造物として愛するのではない。魂のうちにあるこの愛は神のものであり、創造されていないものである。というのも、魂を横切ってゆくのは、神に向けられた神自らの愛だからである。神だけが神を愛することができる。わたしたちがなしうるのは、自らの魂のなかの神の愛が通る道を空けるために、自らの感性そのものを捨象するのに同意することだけである。これが、自己を否定するということである。わたしたちはこの同意のためだけに創造されたのである。

194-195頁

神が創造したもの

神は、愛によって、愛に向けて創造した。神は愛そのものと愛する手段以外のものを創造しなかった。神は愛のあらゆる形態を創造した。神は可能なかぎり遠く離れた距離において愛することができる存在を創造した。神自らが最大の距離に、無限の距離に赴いた。なぜなら、他の何ものもそうしえなかったからである。神と神とのあいだのこの無限の距離であり、至高の引き裂かれであり、他の何ものも近づきえない痛みであり、愛の驚異であるもの、それがキリストの磔刑である。呪いとされたことよりも神から遠ざかることはできない。

184頁

結びつけ、ひとつにするもの

神と神とのあいだの愛は、それ自体が神である。この愛は、これらふたつの欲望〔前段を受ける〕を叶えるという効用をもつつながりである。このつながりは、見分けがつかなくなるほどふたつの存在を結びつけ、 実のところただひとつのつながりとなる。このつながりは距離を超えて広がり、無限の別れを克服する。複数性をいっさい消失させる神の一性、自らの〈父〉を完全に愛することをやめずにキリストがそう思い込んでいる見棄てられた状態、このふたつは、神そのものである〈愛〉という神の効用のふたつのかたちである

186頁

方向性としての愛

愛とは方向性であり、魂の状態ではないということを完全に知らねばならない。このことを知らないと、不幸の最初の一撃で、絶望のうちに落ち込んでしまう。

196頁

不幸を見つめること

不幸を距離として見つめるのでなければ、不幸が現に存在していることを受け入れられない。

183頁

不幸の起源、不幸の帰結

メカニズムが盲目的でなかったならば、不幸などいっさいなかったであろう。不幸は、なによりもまず無名であり、捕らえた人からその人の人格性を剥奪し、その人を物にしてしまう。不幸は無関心であり、金属的な冷たさであるこの無関心という冷徹さが、不幸が触れる人すべてを魂の奥底まで凍らせる。この人たちはもはやけっして温かさを取り戻すことはないであろう。こうした人たちはもはやけっして自分が誰かであるとは信じないであろう。

185頁

神への暗々裏の愛の諸形態

純粋さ──幾何学とのアナロジーから

宗教的な事柄は、個別に感じられる事柄である。この世に現に存在しているものであるが、完全に純粋なものである。それは宗教的な事柄固有のものではない。教会は醜悪で賛美歌は偽物で司祭は腐敗し信者は上の空であるかもしれないある意味ではそうしたことはどうでもよい。幾何学者が正確な論証をするのに、直線が曲がっていたり、円が歪んでいたりする図形を描いても、そうしたことがどうでもよいのと同様である。宗教的な事柄は、理論上、仮説上、定義上、約定上、理に適った純粋なのである。

255頁

絶対的な純粋さ

だがこれら〔典礼の言葉、ロマネスクの建築、グレゴリオ聖歌〕の中心そのものに、完全に美が剥奪されており純粋なものが何ひとつあらわれず約束でしかない何かがある。そうでなければならない。建築、歌、言語といったものはすべて、たとえキリストがこれらの言葉を発しているとしても、絶対的な純粋さとは別のものである。絶対的な純粋さはこの世で個別なものとして現世のわたしたちの感覚にあらわれる。それは約束でしかありえない。約束であって他の何ものでもない。〈聖体〉の中心にはこのような約束が置かれている。

256頁

世界の美

世界の美は、神の〈叡智〉と創造との協働である。「ゼウスがすべてをなして、バッカスが仕上げた」とオルフェウス教の詩句は述べている。仕上げとは美の創造である。神は宇宙を創造した。そして、最初に生まれたわたしたちの兄弟たる神の〈子〉が、わたしたちのために宇宙の美を創造した。世界の美とは、物質を通してわたしたちに向けられたキリストの優しさによる微笑みである。それは宇宙の美において実際にあらわれている。宇宙の美への愛は、わたしたちの魂のうちに降りてきた神から生じてきて、そして宇宙においてあらわれている神に向かってゆく。それはまた、秘跡のような何かである。

232頁

真の宗教と偶像崇拝

神による否定、神による自発的な距離、神による自発的な消去、神のあらわれとしての不在、神のこの世での隠れたあらわれといったものを思い描いた宗教、このような宗教は真の宗教であり、多様な言語で表現されている神の大いなる〈啓示〉である。命じる能力があるところどこでも命じるものとして神を表現している宗教は間違っている。たとえその宗教が一神教であったとしても、その宗教は偶像崇拝である。

212頁

現前と不在をめぐる逆説

隠れていればいるほどそれだけいっそうキリストは完全にあらわれている。とはいえ、司祭が現行犯でキリストの身柄を拘束したとき、おそらくキリストのあらわれはその肉体において、さらにいっそうに完全で、さらにいっそう隠れていた。だがまたキリストはこのとき、万人から見捨てられた。あまりにもキリストはあらわれていた。それは、人間には堪え難いことであった。

258頁

隣人への超自然的な愛、創造的な注意

キリストはわたしたちにこう教えている。隣人への超自然的な愛とは同情と感謝の交換であり、それは、個性=人格をもっている人と個性=人格を剥奪されている人とのあいだの閃光として生み出されるのだ、と。ふたりのうちのひとりは、名もなく、誰にもいっさい知られず、道端で動かず血まみれの裸の肉片にすぎない。物となったこの人の傍らを通り過ぎる人は、この人にほとんど目もくれず、そして数分後には、物となったこの人を見かけたことすら忘れている。ただひとりの人だけが立ち止まり、物となったこの人に注意を傾ける。それに続く行為は、この注意を傾ける瞬間から自動的に起こる結果にすぎない。このような注意力は創造的である。だが、注意力が働いている瞬間、注意力は放棄である。少なくとも注意力が純粋であれば、そうである。自分の能力を広げるのではなく、自分とは無関係に、自分ではない他の存在をただ現に存在させるエネルギーの消費に集中することで人間は、自らが縮小することを受け入れる。さらに、他者が現に存在していることを欲するとは、その人のうちに、共感によって自分を移し入れることである。したがって、その人が置かれている動かぬ物質の状態に与ることである。

213頁

宗教は眼差しのうちにしかない──真の信仰

だがまた、宗教は眼差し〔regard〕のうちにしかないということが、公に、正式に認められるべきであろう。宗教が眼差しではないものを装うならば、次のことは避け難い。それは、宗教が教会の内部に閉じ込められるか、あるいはまた、宗教が見出される場所とはまったく別の場所で、すべてを窒息させるかである。宗教は、魂のうちなる超自然的な愛に適っていない場所を社会のなかに占めようとすべきではない。だが、多くの人は慈愛を自らのうちで堕落させているのも確かである。なぜなら、多くの人は自らの魂のなかに、大きすぎる、見えすぎる場所を慈愛に占めさせようとしているからである。わたしたちの〈父〉がいますのは、隠れたところのみである慎みなくして愛は赴かない。 真の信仰とは、自分自身に向き合うときでさえ、大いなる慎みを意味する。真の信仰とは、神とわたしたちとのあいだの秘密である。わたしたち自身はこの秘密にほぼ与っていない。

269頁

悪を破壊する──注意

自らの注意力を完全な純粋さに向けるという行為だけが、移し替えの働きによって自らのうちになる悪の一部を破壊しうる。

258頁

ヒュポモネー──奴隷のイメージ

救いをなす態度は、いかなる行為にも似ていない。この態度を表現するギリシア語は、ὑπομονῆであり、〔ラテン語の〕 patientia はかなりまずい訳である。ὑπομονῆは待機であり、注意深く、忠実な不動性である。果てしなく続いてゆき、いかなる衝撃にも揺さぶられることはない。主人が叩くとすぐに開けられるよう扉の近くで耳をそばだてている奴隷は、その最良のイメージである。態度を変えるのではなく、飢えと疲れで死ぬ覚悟ができていなければならない。仲間がその奴隷に呼びかけ、話しかけ、叩いても、頭すら動かしてはならない。主人が亡くなったと告げられても、そしてそう信じていても、奴隷は動かないであろう。主人は奴隷に苛立っており、帰ってきたら奴隷を鞭打つだろうと告げられても、そしてそう信じていても、奴隷は動かないであろう。

266頁

探し求めずに待つこと

能動的に探し求めることは愛にとってだけでなく愛の法則に倣う知性にとっても有害である。幾何学の問題の解答が、ラテン語やギリシア語の章句の意味が、精神に立ちあらわれるのをひたすら待たなければならない。いっそう強い理由から、新しい科学的な真理に対して、美しい詩句に対して、そうしなければならない。探し求めることは誤りに行き着く。あらゆる種類の真の善についても同様である。人間がなすべきことは善を待ち悪を避けることだけである

266頁

「主の祈り」について

〔1〕天空にいますわたしたちの父よ/〔2〕あなたの名が聖なるものとなりますように/〔3〕あなたの国がやってきますように/あなたの意志が成し遂げられますように/天空にも、大地にも等しく/超自然的であるわたしたちのパンを、今日、わたしたちに与えてください/そして、わたしたちにわたしたちが負っているものを免れさせてください。わたしたちもまた、わたしたちに負っている人を免れさせたように/そして、わたしたちを試練のうちに投げ込まず、わたしたちを悪から守ってください。(「マタイによる福音書」6: 9-13)

〔2〕を受けて──

神だけが自らを名乗る能力をもっている。神の名は人間の口からは発せられない。神の名は神の言葉である。それは〈御言葉〉である。何らかの存在の名は、人間の精神とその存在とのあいだの媒介であり、人間の精神が、その存在が不在のときにその存在の何かを摑むことができるただひとつの道である。神は不在である。神は天空にいます。神という名は、人間が神に近づくことができる唯一の可能性である。

290頁

〔3〕を受けて──

いま問題となっているのは、来たるべき何かであり、そこに存在しない何かである。神の国とは、知性をもつ被造物の魂全体を完全に満たす〈聖霊=聖なる精神〉である。〈精神〉は、欲するところに息を吹きかける。〈精神〉に訴えることしかできない。自分に、あるいはしかじかの他者に、あるいは万人にすら、〈精神〉に訴えることを個別に考えることさえしてはならない。そうではなく、純粋に、素朴に〈精神〉に訴えかけなければならない。〈精神〉を考えるとは、訴えであり、叫びでなければならない。それは、極限の渇きのうちにあるとき渇きで苛まれているときもはや自分自身が水を飲むという行為も一般的に水を飲むという行為すら思い浮かべはしないのと同様である。水だけを、渇きのうちで手にする水だけを思い浮かべる。だがこの水のイメージは、存在全体をかけた叫びとしてのものである。

291頁





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