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【東西両漢編】第2回 十八王封建

はい公立志伝

 後にかんの初代皇帝となる劉邦りゅうほうは庶民の出身であることで有名です。字は季、父は劉太公りゅうたいこう、母は劉媼りゅうおうとありますが、字は『四男坊、末っ子』、父は『劉のおやじさん』、母は『劉のおかみさん』くらいの意味です。あまりはっきりとした素性の家柄ではないという事ですね。
 『史記しき高祖こうそ本紀ほんぎ』には若いころの劉邦について記述されています。
 にあった沛県で生まれた劉邦は実家の農業を嫌い、亭長ていちょうという治安維持やかんたんな裁判を担当する下級役人をやっていました。今風に言うと派出所の長、『こち亀』の大原部長のようなポジションですね。社会の最下級ではないが、エリートとも言えないポジションです。もっとも劉邦の性格は両津の方が近いですが。

 そんな亭長の仕事も劉邦はあまり熱心ではなかったようで、しょっちゅうツケで酒を飲んでいたそうです。そんなダメ人間な劉邦ですが優しく、度量が大きく、気前も良かったという事で人々から好かれる存在だったようです。
 劉邦の周囲には多くの人が集まりました。幼馴染の盧綰ろわん、肉屋の樊噲はんかい、御者の夏侯嬰かこうえい、葬儀屋の周勃しゅうぼつ、豪族の王陵おうりょう、刑務官の曹参そうさんなど後に漢帝国の中枢を担う人材達です。
 この頃の劉邦と交流があった人々の中でも特に重要なのが、沛県で役人をしていた蕭何しょうかという人物です。地元出身の叩き上げながら、その才覚を評価され咸陽かんようからスカウトされたこともあるようです。後の行動から見ても蕭何はしんの統治システムについてかなり深い部分で理解していたと考えられます。
 また、この頃劉邦は地方の有力な家柄と言われるりょから妻を迎えています。呂雉りょちと呼ばれる女性です。ちなみに好色な劉邦には呂雉との結婚前に愛人との間に子供をもうけています。

 亭長の職にあった劉邦ですが、ある日驪山りざんという土地に人夫を連れて行くという任務を受けます。秦の始皇帝陵がある地域ですね。
 しかし、驪山での労働を恐れて逃亡者が続出してしまいます。任務に失敗した劉邦は処罰を恐れて残った人夫を引き連れて逃亡、賊に身を落としてしまいます。

 劉邦の逃亡中に陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱』が発生します。沛県でも秦打倒の機運が高まります。沛県の長官は反乱軍が優勢と判断し、反乱軍に加わろうとします。それに対して蕭何と曹参が意見します。
あなたは秦の役人で、沛県の人間はあなたに従わないでしょう。逃亡中の劉邦と数百人の手下を味方にできれば、沛県の人間はいう事を聞くでしょう」
 この意見に賛同した長官は劉邦を呼び戻します。しかし、劉邦が沛県に入場する直前に掌を返して劉邦を排除しようとしました。この動きに沛県の人々は長官を殺害し劉邦を迎え入れました。
 これ以降劉邦は反乱軍の一将軍として、秦打倒の戦いに身を投じることになります。

 楚の項梁こうりょう項羽こうう勢力の一員として合流した劉邦軍団は秦軍や、独立後に領土問題が発生したとも戦いました。途中、雍歯ようしという人物の裏切りによって郷里・沛県を失うという事もありましたが、次第に勢力を拡大していきます。
 このあたりは春秋戦国時代に巻き戻りつつある感じがしますね。

 やはり、劉邦には人を惹きつける魅力があるのか、この時期にも多くの人材が劉邦の元に集まりました。抜群の武勇を誇る灌嬰かんえい。儒教を修めた知恵者の酈生其れきいきとその弟で将軍の酈商れきしょう。そして、韓の貴族で、始皇帝暗殺未遂事件を起こした張良ちょうりょうが劉邦陣営に加わりました。

 張良は始皇帝暗殺の失敗後、身を潜めていました。この頃、罪を犯し逃亡中だった項羽の叔父である、項伯こうはくという人物を助けています。
 陳勝・呉広の乱が発生すると地方の若者を集め、景駒けいくという人物と合流しようとします。その途中、張良は劉邦と出会ったようです。
 張良はこれまで様々な人物に献策を行っていましたが、その策を採用されることがなく世に埋もれた存在でした。しかし、劉邦は張良の策を次々と採用して勢力を拡大していきます。
「劉邦様の才は天からの授けものである」
 劉邦に心酔した張良は景駒との合流を取りやめ、劉邦とともに行動することになります。
 彼は後世、三国時代の諸葛しょかつ孔明こうめいと並び称される名軍師として、歴史に名を刻むことになります。

秦の滅亡

 秦最後の名将・章邯しょうかんが楚に降伏すると、楚の懐王かいおうは秦の首都・咸陽かんよう攻撃の命令を発します。
 項羽は最短ルートで咸陽に向かい、抵抗する勢力は打倒し、邪魔する城塞は陥落させて進撃していきました。
 一方劉邦は、急がば回れと言わんばかりに防備の手薄な箇所を狙い、大きく迂回をしながら咸陽を目指しました。また、劉邦軍は略奪や虐殺を禁じて住民たちの安全を図ったため、戦う前から降伏してくる都市もあったようです。

 当初は破竹の勢いで進む項羽でしたが、苛烈な攻撃に対して秦軍が死に物狂いで抵抗したことからその進軍速度は次第に低下していきました。項羽は会戦では非常に強力ですが、守りを固めた相手に対しては手間取る場面があります。手間取るだけで負けるわけではないのですが、このときはそれが致命的でした。
 逆に劉邦は元々秦軍が手薄な地を進み、更に占領地に対して寛大であったことから、遠回りにも関わらず項羽より早く咸陽を守る拠点の一つ武関ぶかんを攻略してしまいました。
 これには劉邦本人の気質張良の戦略蕭何の行政官としての手腕による部分が大きいと思われます。

 反乱軍が首都に迫っているとの情報を得た二世皇帝胡亥こがいは、最高権力者である趙高ちょうこうを責めます。趙高にとって胡亥は皇帝といえどもただの道具でした。使えなくなった道具は捨てられる運命にあります。趙高は胡亥を殺害してしまいます。
 更に秦の帝室に連なる子嬰しえいという人物を次の秦王に就任させます。『史記』の記述では始皇帝の孫だったり弟だったりと、記録が安定しない人物ですね。血縁的に始皇帝に近しいことは間違いなさそうです。
 三世皇帝ではなく秦王としたのは、既に秦の統一が崩壊していたことを意味します。統一国家としての秦はわずか二代で終わったことになります。
 新たに秦王となった子嬰は手始めに秦のガンである趙高を粛清しますが、このときすでに劉邦軍は武関を突破し咸陽の目前でした。
 これ以上の抵抗は無意味と判断した子嬰は劉邦に降伏します。紀元前206年10月。子嬰の在位期間はわずか46日でした。

 咸陽一番乗りを果たした劉邦は、これまで通り略奪や虐殺を禁じ、秦の宝物庫も封印し、治安の維持に努めました。酒好き女好きの劉邦は羽目を外したいところでしたが、樊噲や張良の諫言もあり我慢したようです。
「良い薬は口にすると苦いが病気には利きます。良い忠告は耳が痛いですが良い結果を招くものです」
 一方で蕭何は秦の行政文書や全国の地図を接収しています。

鴻門の会

 人の意見をよく聞き入れるのは劉邦の美点であることは間違いありません。しかし、時にはそれが裏目に出ることもあります。
「項羽が咸陽に入れないようにすれば天下は劉邦様のものですよ」
 このような進言を聞き入れた劉邦は函谷関を封鎖し、項羽の咸陽入城を妨害します。当然これには項羽は激怒し、英布えいふに命じて函谷関を攻撃。項羽、英布という屈指の猛将の前に函谷関はあっさりと陥落してしまいます。まともに戦って項羽に勝てるわけがない劉邦は、咸陽郊外で釈明を行います。
 これが有名な鴻門こうもんの会』です。漢文の授業で習った人も多いのではないでしょうか。
 項羽の軍師・范増はんぞうは劉邦を危険視し、この場で殺害しようと目論みます。しかし、張良は項羽の叔父である項伯こうはくを味方に引き込み、暗殺計画を防いでしまいます。范増の魔の手から張良の知恵や樊噲の勇気で切り抜けていく、中国史上でも有名な名シーンです。
 項伯は以前張良に命を救ってもらったことがあり、これ以降も張良を通じて劉邦をアシストしていくことになります。
 この頃は儒教がまだまだ浸透しておらず、当然主君への忠誠心も大事ですが、個人の友情や義侠心も大事にされていた時代なので、項伯の利敵行為は当時はあまり避難された様子はありません。後世の項羽ファンからは戦犯扱いですが。

 改めて咸陽に入った項羽は秦王子嬰を殺害。|阿房宮《あぼうきゅう》は破壊し、秦の財産も接収しました。天下人同然となった項羽は論功行賞を行い、秦滅亡後の秩序を作ろうとします。
 まず秦の郡県制は解体します。19の国に分割し、それぞれに王を任命します。秦や斉などの大国は分割されました。この時任命された王たちは九江王きゅうこうおうとなった英布を除けばほとんどが元々独立勢力として秦と戦っていた者たちでした。
 項羽の封建制への強烈な回帰志向が見られます。
 劉邦は漢中かんちゅうを治める漢王かんおうとなりました。
 項羽にとって主君筋に当たる楚の懐王かいおう義帝ぎていとしてより上位の称号を与えられますがこれは当然名目上のものでした。秦が滅亡して利用価値がなくなった義帝は項羽の指示を受けた英布によりすぐに暗殺されてしまいました。

 項羽は十八人の王を束ねる存在として、新たな称号を作ります。
 かつて『徳』によって天下の盟主となった夏・殷・周の三王、そして春秋時代に『力』によって天下の盟主となった春秋の五覇から取り、覇を凌ぐ王すなわち『覇王』を名乗ります。
 上に近い存在として『皇帝』を名乗った始皇帝とは対象的に、人としての力や徳で天下を束ねようという意思表示ですね。
 また、この覇王の称号からも項羽の封建制への回帰志向が見られます。

 この十八王封建でもっとも揉めたのが斉でした。斉は王族の田氏が反秦の戦いに立ち上がり、章邯との戦いで即位したばかりの斉王が死亡するなど多くの犠牲を出しました。
 特に田栄でんえいという人物は親族を失いながらも項羽とは独自路線で秦に対抗していました。彼は斉での反秦の象徴的存在でしたが、王に任命されませんでした。
 
その代わりに、田栄の従兄弟の子供、遠い親戚、田栄から離反して項羽に協力した人物が王に任命されてしまいました。
 この辺りが項羽が好き嫌いで人事をしていると非難する人がいますが、この斉をめぐる人事は槍玉に挙げられることが多いです。
 しかし、封建的貴族社会にどっぷり浸かった項羽や范増ら楚の首脳陣にとって、このような人事は当たり前だったのかもしれません。
 田栄は項羽に反乱を起こし、この十八王封建は発足当初から崩壊してしまいます。

劉邦東進

 任地の漢中へ赴いた劉邦ですが、この時軍師の張良は一時的に離脱することになります。張良の祖国・韓も十八王封建によって復活したためです。
 張良と入れ替わる形で新たに劉邦陣営に韓信かんしんが加わります。彼は過去に田舎のゴロツキに因縁をつけられ、そのゴロツキの股をくぐらされるという辱めを受けた人物でした。
 元々項羽に仕えていましたが、このエピソードもあり、あまり評価されていませんでした。劉邦も当初は韓信を見くびっていましたが、右腕ともいえる蕭何はこの韓信を高く評価しました。

 韓信は劉邦のもとでも出世の見込みがないと判断して亡命を図りますが、蕭何は自身にも逃亡の疑いがかけられるリスクを省みず韓信を引き留めます。
 劉邦は蕭何に問いました。
「なぜお前は逃亡を図ったのだ?」
「逃亡を図ったのではありません。韓信を連れ戻そうとしたのです」
「ほかにも逃げた将軍はいるだろう。それなのに何の実績もない韓信にそこまでするのだ?」
韓信こそ国士無双こくしむそうであり、そこらの将軍とは別格です。このまま漢中の王で満足するなら韓信は不要です。しかし、項羽と戦い、天下を狙うなら韓信の力は不可欠です」
 劉邦は蕭何の熱弁に考えを改め、紀元前206年4月何の実績もない新参の韓信をいきなり上将軍・軍の最高司令官に抜擢します。後に『国士無双』『兵仙神帥へいせんしんすいと呼ばれ、蕭何・張良と並ぶ『高祖三傑こうそさんけつの一角、『武廟十哲』に数えられる中国史上最高の軍事指揮官の誕生です。

 漢中から咸陽までは蜀の桟道と呼ばれる険路が続き、大軍の移動が困難な状況でした。韓信はまずこの桟道の修復を始めます。
 旧秦領を治める章邯はこの知らせを聞き、劉邦が反逆するとしてもかなり時間を要すると判断しました。しかし、韓信はこの章邯の心の隙をつきます。
 紀元前206年8月、通常ルートよりもさらに険しい別ルートを急行した韓信は章邯に奇襲を仕掛けます。章邯は敗北し、その後は粘り強く戦いますが翌紀元前205年についに自害してしまいます。
 斉の反乱に手間取っていた項羽はこの動きにすぐ対応することはできませんでした。范増の進言もあり、劉邦に近かった韓王・せいを粛清しますがこれは完全に藪蛇でした。韓に復帰していた張良はこれを機に劉邦の元に戻ることになります。

 難敵・章邯を下し、関中に復帰した劉邦は韓や魏などに働きかけ対項羽包囲網を形成します。劉邦軍は56万もの大軍勢に膨れ上がり、項羽の本拠地・彭城ほうじょうへの進軍を開始します。
 この時、漢軍は劉邦を頂点として、魏王・魏豹ぎひょうを軍事上の指揮官で各国の軍はそれぞれの司令官が率いるという封建的な編成でした。
 韓信がこの時何をしていたかは記録にありません。時期的には章邯と戦っている最中か、その戦後処理だったのではないかと個人的には思います。
 
また、韓信はかなり周到に準備を行い、合理的に勝利を掴むタイプの指揮官なので、少なくとも韓信がこの勢い任せの戦略には否定的だったのではないかと思います。
 蕭何と張良も慎重かつ、中央集権化を戦略の根幹においていることから、この作戦や指揮系統に関して支持していたとは到底思えません。おそらく劉邦の独断に近かったのではないでしょうか?

彭城の戦い

 斉での戦いが終わらない項羽は、九江王の英布に彭城の守備を依頼しますが、英布は病気を理由にこの依頼を拒否します。一応部下は派遣したようですが、56万という未曽有の大軍の前では無力でした。
 劉邦軍の前にわずかな守備兵力とわずかな援軍しかない彭城はあっさりと落城してしまいます。
 咸陽のときとは違い、このときの劉邦軍は略奪や乱暴狼藉に走ったとされています。この点からも蕭何や張良がこの戦いに関わっていた可能性が低いと考えられます。劉邦自身も酒と女の日々を送るようになります。

 本拠地の陥落を聞いた項羽は当然激怒します。しかし、斉の反乱を放置するわけにもいきません。項羽は率いていた兵の大部分を斉に残し、精兵3万を率いて彭城に急行します。
 紀元前205年の4月、彭城に到着し劉邦軍が油断しきっていることを知った項羽は城の西門から突入し、攻撃を開始します。
 指揮権を各国に委ねていた劉邦軍は項羽の速攻に対応できず、瞬く間に10万人もの兵士が殺戮されました。劉邦軍は彭城から逃亡しますが項羽軍はこれを追撃、付近の川に追い詰められ更に10万人もの死者が出ました。
 劉邦自身は子供を馬車から投げ捨てながらもなんとか逃げ切りましたが、劉邦の父や妻は捕虜となるという大惨敗でした。

 それまで劉邦に味方していた魏豹はじめ諸侯は項羽の強さを目の当たりにし、劉邦のもとを去っていきました。
 ただ、全員がそのまま復帰できたわけではなく、章邯の部下だった司馬欣しばきんという人物は章邯を見捨てて劉邦に降伏したという経緯もあり粛清されてしまいました。このとき司馬欣と近かった陳平ちんぺいという人物は連座で殺されることを警戒し、劉邦のもとに走りました。

 陳平は韓信と同じくあまり世間での評判は良くない人物ではありましたが、非常な知恵者でした。張良が広い視野と高い視座を持った大戦略家とするなら、陳平は人の心を的確に読み、利用する策略家といった感じでしょうか。

 陳平という新しい味方は増えたものの、劉邦にとっては失うものの多い大敗北でした。
 敗残兵をまとめ、榮陽けいよう(河南省鄭州市)に立て籠もりなんとか項羽の攻撃を凌ぎますが戦力差は明らかでした。
 しかし、絶体絶命の劉邦軍は陳平の策略によってピンチを脱出し、張良と韓信の活躍によって形勢を逆転していきます。

 次回は陳平の策略から楚漢戦争の集結までお話していきたいと思います。