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【東西両漢編】第3回 四面楚歌

劉邦の危機

 彭城ほうじょうの戦いで惨敗した劉邦りゅうほうは、滎陽けいように籠城します。項羽こううの猛攻を何とかしのぐ劉邦陣営でしたが張良ちょうりょう陳平ちんぺいという二人の知恵者がこの窮地を脱するため活躍します。
 陳平は密偵を放ち、金銭を惜しみなく使って項羽陣営にある噂を流します。
范増はんぞう龍且りゅうしょ鍾離眜しょうりばつ周殷しゅういん楚の重臣たちは項羽が恩賞を出し渋ることに不満があり、反逆して王になろうとしている
 項羽が論功行賞、つまり分け前の分配が上手くないことは十八王封建が早々に破綻したことからも明らかでした。これらの噂はある程度の信憑性があったわけです。
 項羽と范増らの間に入った亀裂はやがて修復不可能となり、ついに范増は職を辞してしまいます。そして郷里への途上で病を患い、范増はそのまま亡くなってしまいました。
 更に陳平は漢の将軍・紀信きしんを劉邦の偽物に仕立て上げて偽装降伏し、その隙に劉邦本人は逃亡するという金蝉脱殻きんせんだっかくの計』で窮地を脱し、拠点である関中での立て直しに成功しました。

 張良は英布えいふ彭越ほうえつとの連携を試みます。
 英布は元々項羽麾下の猛将として活躍した人物ですが、彭城の戦いの際に項羽の救援要請を断っており、関係が悪化していました。
 彭越は陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱にも参加した盗賊出身のゲリラ戦を得意とする群雄です。かなり活躍したのですが項羽からは功績が評価されず、不満を貯めていました。
 項羽との関係が悪化している実力者2人を仲間にして項羽を牽制しようという戦略です。張良は英布と彭越を仲間にすることに成功。彭越は得意のゲリラ戦術で項羽を補給を脅かし、英布は項羽配下の龍且に敗れますがその後劉邦と合流し共闘します。

 更に張良は韓信をちょうえんせいに派遣して項羽を孤立させようとします。項羽を徹底的に孤立させる戦略です。
 この時儒者の酈食其れきいきが各地の諸侯の身分を保証し、連携する策を提案します。劉邦はこの策に乗り気でしたが、張良は強硬に反対します。
 一見、酈食其の策も項羽を孤立させるために有効に思えますが、諸侯の統制ができない状態では項羽に勝てないことは彭城の戦いで証明されます。同じ封建制という同じゲームルールでは項羽には勝てないのです。
 項羽に勝つには、項羽を孤立させること。そして、中央集権的な体制を確立して組織的に項羽に対抗すること。この2つが不可欠と張良は考えていました。そんな張良にとって、酈食其の策は許容できなかったわけです。

 この時代の多くの人々にとって、世界とは戦国七雄を始めとする様々な国が乱立することが当然という認識だったでしょう。酈食其は当時最高峰の学識と頭脳の持ち主でしたが、その認識が変わることはありませんでした。劉邦も封建的な社会に特に疑問は持っていなかったでしょう。
 個人的な考察ではありますが張良の言動から推察するに、社会や組織のシステムそのものを更新しなければ項羽には勝てないと考えていたのではないでしょうか。

兵仙神帥

 張良の大戦略の要となったのが韓信でした。劉邦と英布が項羽をひきつけて彭越が後方撹乱をしているスキに、項羽以外の全勢力を劉邦の支配下にしなければいけません。副将に常山じょうざん王・張耳ちょうじと後に漢帝国の相国しょうこくとなる曹参そうさんを従え、韓信は北伐を開始しました。

 まず、魏に侵攻した韓信は西魏王・魏豹ぎひょうと対峙することになります。魏豹は一時は劉邦に味方していた人物ですが、彭城の戦いで劉邦を見限っていました。河を挟んで対峙した両軍ですが、韓信軍は樽で即席の筏を作って魏の首都・安邑あんゆうを急襲。挟み撃ちにする形で魏軍を撃破し、魏豹を捕虜とします。魏豹は身分を剥奪され、庶民に降格し追放されます。その後劉邦の元に復帰しますが項羽への寝返りを疑われ殺害されました。
 ちなみに魏豹の愛妾にはく氏という女性がいました。彼女は占い師に
「あなたは天下人の母となる女性だ」
と言われ、それを知った魏豹はたいそう喜びました。
 魏豹が韓信に破れたあと、薄氏は劉邦の愛人となり子供を生むことになりました。その子供が漢の第5代(3代とする場合もあり)皇帝で名君と名高い文帝ぶんていです。

 続いてだいを下した韓信はちょう攻略に取り掛かりますが、ここで問題が発生します。項羽の攻撃により劉邦が兵力不足に陥り、韓信軍から増援を送ることになったのです。韓信は残った新兵3万を率いて総兵力20万の趙と戦うことになりました。
 趙の将軍・李左車りさしゃ章邯しょうかんや魏豹に勝利した韓信を警戒し、井陘せいけいという狭小な地形で奇襲を仕掛ける作戦を提案します。李左車はかつて始皇帝を苦しめた名将・李牧りぼくの孫です。

 それに対して趙の宰相・陳余ちんよ戦力で劣る相手を奇策で勝っても他国から侮られると反対しました。陳余は韓信の副将・張耳とはかつて親友同士でしたが、項羽の論功行賞が不公平であったため張耳を襲撃した人物でした。

 井陘での奇襲を警戒していた韓信でしたが陳余の策が採用されたことを知り、素早く隘路を抜けて陳余率いる趙軍20万の前に布陣します。
 このとき韓信が採用した作戦が有名な背水はいすいの陣』です。通常、逃げ場がなくなるため川や湖沼を背にして布陣するのは禁忌です。
 兵力と地勢から圧倒的に有利と判断した陳余は韓信に対して総攻撃を仕掛けます。しかし、逃げ場がない漢軍は死にものぐるいで戦い趙軍の攻撃を防ぎました。簡単に勝てると思っていた趙軍は前懸かりになって攻撃をしていたため、韓信の別働隊が背後の城を陥落させたことに気が付きませんでした。背後を取られたことで恐慌状態に陥った趙軍は総崩れとなり、陳余や趙王も捕虜となり処刑されました。

 李左車は韓信からその才智を評価され、その後に採るべき戦略を尋ねられます。
「敗軍の将、兵を語らず」
と、一度は答えたのですが韓信はそれにこう返します。
「賢者である百里奚ひゃくりけいにいた時に虞は滅び、秦にいた時に秦は覇者になりました。これは百里奚が虞では愚かで秦に来た途端賢くなったからではありません。上に立つ人間がその意見を採用するかどうかなのです

 韓信の説得を受けた李左車は策を授けます。
 韓信の戦功は誰もが認めるところであるが、反面兵卒は連戦により疲弊していました。そのため兵卒の英気の回復を図りながら趙の安定に努め、それと同時に燕や斉に対しては武名と武力を背景に圧力をかけて屈服させるべきであると。
 燕王は李左車の策通り、韓信の強さを恐れ服従を約束しました。

 この段階で韓信はわずか2年の間に戦国七雄のうち秦、魏、趙、燕を打倒あるいは服属させることになりました。単純に比較できるものではありませんが、この戦功は古今の名将のそれを上回るものであり空前絶後のものでした。

破滅の伏線

 彭城の戦いの際に斉は項羽と停戦状態となり、項羽の最大の敵が劉邦にシフトしたため斉と楚の対立は沈静化していました。

 韓信は魏、趙、燕に続き斉侵攻の準備を始めます。この韓信の軍事行動は張良の戦略に沿ったものでした。
 しかし、ここで大問題が発生します。酈食其が劉邦に斉との和平交渉をするべきと提案し、自ら斉に赴き斉王を説得したのでした。
 酈食其の説得が成功したことを聞いた韓信でしたが、この段階で斉攻撃の中止命令は出ていません。どうするべきか判断に迷った韓信に蒯通かいとうという人物が進言します。
「一度斉攻撃の命令が下され、攻撃中止の命令がない以上は攻略を続行する以外に選択肢はありません。また、酈食其は弁舌で70城を擁する斉を攻略したことになり、命がけで戦った韓信将軍の戦功を上回ることになります」
 蒯通の説得を受けた韓信は和睦の成立に油断する斉に一気に攻め込みます。
 当然斉王は激怒し、酈食其を煮殺してしまいますが、酈食其が死んだところで韓信の攻撃が停まるはずがなく、斉の城は次々と陥落していきます。
 項羽は右腕とも言える猛将・龍且を派遣しますが、韓信は簡易的な堤防を作成して渡河中の龍且軍に鉄砲水を浴びせるという奇策で対抗します。英布を破り、項羽軍の副将として戦った龍且も荒れ狂う濁流相手ではどうすることもできず戦死してしまいました。

 後世、この時の韓信の行動は酈食其への嫉妬心から来ると言われがちですが、韓信の立場からすれば独断で攻撃中止をすることもできず、張良の戦略方針からすれば斉は攻撃は必然でした。
 外交による斉との連携は封建的価値観に基づく戦略で、張良の描いた戦略とは根本的に異なるものです。
 酈食其にも韓信にも否がないとは言えませんが、この件に関しては戦略的に矛盾する二重司令を出した劉邦が一番悪いのは間違いありません。

 大国・斉を打ち破った韓信に対して項羽は懐柔を試みます。韓信は実績のなかった自分を引き立ててくれた劉邦への恩義からこれを拒否します。
 しかし、蒯通は韓信は現在楚漢の争いのキャスティングボートを握る立場にあり、第3勢力として独立するべしと提案します。韓信は悩んだ末に劉邦を裏切ることはできないと決断しました。蒯通は劉邦を恐れ、精神疾患を装って出奔してしまいました。
 引き続き漢の将軍として戦うことになった韓信ですが、これ以降斉王の地位を要求するなど独立を志向するような挙動が増え、後の悲劇への布石となっていきます。

垓下の戦い

 韓信が項羽以外の勢力を一掃する中、劉邦は粘り強く項羽の攻撃を耐え凌いでいました。蕭何しょうかが継続的に後方支援を行って兵員や物資の欠乏を発生させなかったこと。また、彭越による後方撹乱で項羽が継続的な軍事行動ができなかったこと。この2点がなんとか劉邦が致命的な敗北を回避できた原因でした。
 双方長期間の軍事行動により疲弊が目立つようになり、ついに一時停戦することになりました。お互いの本拠地に帰ろうとする両軍でしたが、劉邦は停戦協定を一方的に破棄し、項羽の背後から奇襲を仕掛けます。このとき韓信や彭越にも招集をかけていたのですが、彼らが到着しなかったため劉邦軍は項羽軍に蹴散らされてしまいます。
 恩賞と身分の保障をすることで、韓信や彭越の招集を約束させた劉邦は再び項羽に対して現在の安徽省にある垓下がいかという土地で決戦を挑みます。この時、項羽の兵力10万に対して、劉邦は兵力40万といわれています。

 当初は項羽と韓信の激突から始まりました。項羽の攻撃の前に韓信も劣勢となり、後退することとなりましたが項羽軍の側面を攻撃することで形勢が逆転連戦連勝、常勝不敗だった項羽がついに戦場で敗北してしまいました。
 単純に兵数が多いだけでは戦いに勝利できないことは、項羽と劉邦本人が彭城の戦いで証明しています。しかし、垓下の戦いでは韓信が自分の裁量で大軍勢を指揮できる状況でした。超人的な戦闘能力とカリスマ性の持ち主である項羽も、大軍を自分の手足のように扱う韓信を兵力劣勢のまま勝利することは不可能でした。
 というか、兵力劣勢の状態から韓信相手に逆転勝利できる人類は存在しないと言い切ってもいいでしょう。

 追い詰められた項羽軍を包囲した韓信は史上有名な作戦を実行します。
 項羽軍を包囲する軍勢からある夜、楚の歌が聞こえてきました。
「楚の本国はすでに占拠されたのだろうか」
「敵の中にも楚の人間が大勢いるのだろうか」
 絶望的な包囲状態の中、不安、郷愁、恐怖様々な感情が楚の将兵を襲いました。兵卒からは脱走者が続出し、その中には鍾離眜や季布きふといった将軍の姿もありました。項羽の叔父である項伯こうはくも友人の張良を頼り漢に降伏しました。
 いわゆる四面楚歌しめんそかです。この作戦は楚軍の心理状態に再起不能なダメージを与え、組織として完全に機能不全に陥ってしまいました。

 項羽は残った者を集め、最後の宴を開きます。その時項羽が歌ったとされるのが、『垓下の歌』です。

「力山を抜き、気世を蓋う
 時に利あらず、すい逝かず
 騅逝かずを、奈何いかんすべき
 や虞やなんじを、奈何せん」

 私の力は山を動かし気迫は世界を覆い尽くすほどである。
 しかし時勢は不利となり愛馬の騅も進まなくなってしまった。
 騅が進まないで一体どうしたらいいのだろうか。
 虞よ虞よお前に何がしてやれるのだろうか。

  そして、最愛の女性であった虞美人ぐびじんに別れを告げ、わずか800人を率いて漢軍の包囲網に突破を試みます。
 厳重な包囲を突破し垓下の南に脱出しましたが、その後灌嬰かんえいの追撃を受け、東城とうじょうという地域で数千人の漢軍に補足される頃には数を28騎にまで減らしていました。
「私がここで滅びるのは、天の意志が私を滅ぼそうとするのであって、私が弱かったからではない。これから敵兵を蹴散らし、それを証明しよう」
 そう叫んだ項羽は28騎を率いて数千の漢軍に攻撃を行います。100人近くの兵士と漢の将校を討ち取り、漢軍を後退させた時脱落者はわずか2名だけでした。

 項羽と26騎は漢軍から逃亡を続け長江の渡し場・烏江うこうに至りました。烏江の亭長ていちょうは長江の対岸へ渡り再起を促しますが、項羽はこれを拒否します。
「私はかつて江東の若者を8千人を率いて西方の秦に戦いを挑んだ。その時の仲間はもういなくなってしまった。民衆が私を受け入れてくれたとしても顔向けできまい」
 ここを死に場と決断した項羽は亭長に自らの愛馬を託しました。項羽に従う26人も馬を降り、徒歩で追撃してくる漢軍に最後の戦いを挑みます。
 26人の部下たちも次々と戦死し、項羽も数百人を殺傷したものの十数箇所に手傷を負いました。そんな戦闘の中、漢軍の中に呂馬童りょばとうという旧知の人物を見つけます。
「劉邦は私の首を獲ったものに莫大な恩賞を約束したそうだな。同郷の誼でこの首はお前に暮れてやろう」
 項羽はそう言い残すと自らの首を刎ね、31年の生涯に幕を閉じました。紀元前202年12月のことでした。

 項羽にかけられた莫大な恩賞を求めて、彼の体には漢軍が殺到し死体は5つに分けられたと史記の項羽本紀に記されています。