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「死にたい」 がとまらない

半年ぶりに note に戻ってきました。
ただいま。

去年の8月に記事を書いてから、ずっと書きたいとは思っていたんです。でも、9月に大学の対面授業が一部再開されてからは、講義や課題や試験に追われて文章を書いている暇がありませんでした。今は春休みです。ようやくひと息つけるようになりました。

さて、ここからわたしの「死にたい」について書いていきます。冒頭から物騒な話で申し訳ないのだけれど、今わたしがいちばん苦しんでいるのが、死にたい気持ちなんです。

一般に、死にたい気持ちには2種類あるとされます。死にたいと思うけれど自殺までは考えていない「希死念慮」と、自殺して人生を終わらせたいと思う「自殺念慮」です。わたしの「死にたい」は、自殺念慮です。

これまでも、月に何度か自殺念慮がわきあがってきたことはありました。ただ、それらは一時的なものにすぎず、音楽を聴いたり、散歩をしたりしてやり過ごせば、自然に消えていきました。ところが今年に入ってから、今まで経験したことがないような強い自殺念慮が生じるようになりました。いったん「死にたい」と思い始めると、それしか考えられなくなるんです。「死にたい」という思いに身も心も乗っとられて、何も手につかなくなります。頭のてっぺんから足先まで、電気が流れているような感覚になって、涙があふれて、からだが震えます。こうなると手も足も出ないので、ベッドに横になるかソファに座るかして、自殺念慮が去るまでじっと我慢しなければなりません。下手に動くと、自分を傷つける行動をとってしまいそうだから。

「いのちの電話」に電話する

2月初め、津波級の「死にたい」に襲われました。自殺念慮が到来する1時間前、わたしは大学の進路ガイダンス(オンライン)に参加していました。学生が興味のある医療機関や自治体のブースを訪れて、人事担当者に直接質問するというプログラムでした。正直なところ、参加する前からゆううつでした。去年4月に復学して以降、うつ病と強迫性障害の症状が徐々に再燃してきたこともあり、就職はおろか大学を卒業する見通しさえ立っていなかったから。

同級生が質問しているのを聞くともなく聞いていると、じわじわと居心地の悪さが忍びよってきました。Zoom だったから、発言している学生の顔がよく見えるんですけど、みんなの顔つきが入学当初とはちがって見えたんです。なんだろう。「看護師になるんだ」という意志の強さ? 覚悟? そんな静かな気迫みたいなものが画面から伝わってきたんです。

ああ、ダメだ。自分はダメ人間だ。みんなは希望の就職先や診療科を決めて、どんどん先に進んでいく。それなのに、わたしは看護師になりたいという気持ちにすら確信が持てない。そんなことをつらつら考えていると、なんだか気分が悪くなってきたので、ガイダンスを途中退室させてもらいました。でも、そのままじゃあんまりだから、自分に問いかけてみたんです。やりたいことはないの?って。別に看護師や保健師でなくてもいい。将来、何かやりたいことはないの?

返ってきた答えは「死にたい」でした。それ以外、やりたいことはない。とにかく死にたい。それだけ。

ここで、自殺念慮のスイッチが入りました。

今まで経験したことのない強度の自殺念慮でした。我慢できないくらい。強くて激しい自殺念慮でした。パニックになりました。もうどうしたらいいのかわからなくて、「こころの健康相談統一ダイヤル」に初めて電話をかけました。ネットで「死にたい」と検索すると、トップに表示されるアレです。

5回くらいコール音が鳴った後に、やさしい声の若い女性が出ました。わたしがどこから電話をかけているのか尋ねてから、申し訳なさそうに、わたしの住む地域を担当する相談窓口に電話をしてほしいと言いました。こちらは涙と鼻水でぐしょぐしょ、半分取り乱しながら電話をかけたので、女性の気づかわしげな様子が伝わってきました。お礼を言っていったん電話を切り、教えてもらった番号に電話をかけました。今度は少し年配の女性が電話口に出ました。わたしの住んでいる地区と、誰に関する相談で電話をかけているのか尋ねられました。自分が市内の大学に通っていること、「死にたい」としか考えられず、どうしたらよいかわからなくて困っていると伝えました。

話の内容を要約すると、第一に「死にたい」という気持ちは我慢する必要はないけれど、決して死んではいけないこと。第二に、わたしがひとりで解決できる問題ではないので、寄りそってくれる人を増やすこと(大学の学生相談室に助けを求めること)をアドバイスされました。

そんな意識の高い人はいないよ

この一部始終を、先週の診察で主治医に話しました。「つらくなったときに電話をかけるという対処行動がとれたのはよかったね」と言われました。それから、何がわたしをそんなに追いつめているのかについて話し合いました。実のところ、考えなくても答えは見つかりました。わたしを苦しめているのは、大学の先生なんです。

わたしの通う看護学部は少し特殊です。普通の大学や専門学校は、看護職者(看護師・保健師・助産師)を育成することが目的です。でも、わたしの大学は単なる看護職者を養成するのではなくて、現場のリーダーとなる看護管理者や、看護学の研究者や、大学で教鞭をとる教育者を養成することを目標に掲げています。そのため、1年生のうちから看護研究について学ぶ「看護実践と研究」を履修するし、高度な問題解決力を修得するための「看護教育学」という大学独自の科目が課されます。それだけならまだしも、わたしたち学生がどんなに「特別」なのかをことあるごとに叩き込まれます。「あなたたちは将来リーダーになる」「この学部で学ぶ君たちはエリートだ」ということを教員が学生に面と向かって言うんです。

あのね、民間企業で働いた経験から言わせてもらうと、いったん現場に出たらエリートもへったくれもないんですよ。仕事ができる・できないは、出身大学の偏差値とは必ずしも比例しません。都内の有名私立大学を出た社員よりも、地元の公立大学を出た社員の方が、場合によってはよっぽどコミュ力が高いし、仕事もできるんです。これは医療現場にだって当てはまるんじゃないかな。偏差値の高い看護系大学を出た看護師より、地元の専門学校を出た看護師の方が、患者さんの気持ちをくみとるのに優れていたり、異変を察知するのが早かったりすることもあるんじゃないのかな。

「この大学は他とは違います」という趣旨の発言を初めて耳にしたときは、いや、それおかしいでしょ。何なんだよ、その特権意識って思いました。この大学の先生って変にプライド高いよね、という違和感も感じていました。でも、大学で過ごす時間が長くなるにつれて、「おかしい」という感覚が徐々に麻痺していきました。この看護学部がどんなに特別なのかという話をくり返し聞かされたり、授業中に教員から怒鳴られたり、叱られたりしているうちに、気持ちがどんどん萎縮していきました。その代わり、先生の言うことは絶対だと思うようになりました。山中教授(仮名)という意識の高い先生がいるのだけれど、彼女に「休むな、怠けるな、勉強せよ」と言われ続けているうちに、本当に休まず勉強しないといけないと思うようになりました。人はこれを「洗脳」と呼ぶのかもしれません。

あの日、診察室で主治医に「教授の意識が高すぎて、ついていけない」「休むことなく勉強し続けろという先生からのプレッシャーが苦しい」と打ち明けたとき、ドクターは言いました。僕が知るかぎり、現場で働いている看護師さんにそんな意識の高い人はいないよ、と。医者だってすべての知識が頭に入っているようなスーパー人間はほとんどいないし、そんなに意識の高い人間がいたら、逆にみんなから引かれるよ、と。

拍子抜けしました。え?そうなの?って。でも、大学の先生の言うことを無視することはできませんって訴えたら、逆に聞かれました。将来、研究者や教育者になりたいの? 類さんは何か目標があるの? と。わたしは研究者や教育者になるつもりはないし、精神疾患が再発しないような穏やかな環境で働けたらそれでいい、と答えました。高い目標や志は一切ありません、と。そしたらドクターは言いました。研究者や教育者になる人を育てるなんていうのは、象牙の塔(大学)の一部の人間が言っていることにすぎないんだ。自分ができることを、できる範囲でやるという働きかたで十分立派なんだよ。それから勉強のことだけど、大事なのは国家試験に受かることだよね? 国試に合格するために最低限必要な勉強をしていれば、それでいいんだよ。

マスクをしていてよかった、と思いました。そうじゃないと、涙を流しているのが主治医にバレてしまったかもしれないから。

結局その日は30分近く話し込んで、不安を和らげるための頓服薬をもらって帰ってきました。4月までは実家でゆっくり休むつもりなので、「死にたい」に襲われることはなさそうです。その点はひと安心なのかもしれません。ただ、進路のことや勉強のことを含めて、これからどうするかはまだわかりません。とりあえず、3月に入ったら大学のメンタルヘルス相談室に予約を入れようと思います。それまで、しばしの休息です。

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