見出し画像

【映画の中の詩】『田園に死す』(1974)


『母さん、どうか生きかえって、もう一度あたしを妊娠してください。』

大工町米町寺町仏町老母買う町あらずやつばめよ
ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

寺山修司『田園に死す』

寺山修司監督・脚本。
寺山修司自身の歌集『田園に死す』と寺山脚本で1962年に同じ八千草薫主演で制作されたテレビドラマが元となっています。

「母さん、どうか生きかえって、もう一度あたしを妊娠してください」と言う八千草薫と父無し子を生んだ村の女による間引きのシーン。

自分自身を妊んで、自分自身を流産する、
と読み取って考えてみました。

映画全体がそのようなイメージの交錯のように思えます。

「わたしという人間に存在意義があるのか?」という疑問、それはとても不安な気持ちにさせられる思いですが、その不安に襲われる精神のバランスを、自分自身の妊娠と堕胎というイメージを自己喪失感の象徴的イメージとして何度もくりかえし味わうことで、取り戻そうとしているという気がします。

〈これは一人の青年の自叙伝の形式を借りた虚構である。
われわれは歴史の呪縛から解放されるためには、何よりも先ず、個の記憶から自由にならなければならない。
この映画では、一人の青年の「記憶の修正の試み」をとおして、彼自身の(同時にわれわれ全体の)アイデンティティの在所を追求しようとするものである。〉(寺山修司による映画『田園に死す』のノート)

寺山修司シナリオ集

太宰治や谷川俊太郎の作品の「父性の不在」を批判する寺山でしたが、では妊娠と堕胎を繰り返すかのような彼の作品の「父性」とは何なのか?

「アイデンティティの在所を追求」と書いているが本気だったのだろうか?むしろそんなものは追えば追うほど逃げていってしまう、ということを言っているというのが私が彼の作品から受ける印象なのですが。

亡き母の真赤な櫛を埋めにゆく恐山には風吹くばかり
濁流に捨てこし燃ゆる蔓珠沙華あかきを何の生贄とせむ

寺山修司『田園に死す』

彼の作品の中で母は人形のように化粧され、殺され、そしてそのたびによみがえる。
それは寺山修司自身がくりかえし死に、くりかえし再生することだったのではないか?

「人を訪わずば自己なき男」と若き日に寺山が詠んだ歌は、彼の自己紹介のようなものだったのかもしれない、と私は思うのです。

少年時代の私は、一つの鏡がはてしなく深い奈落の暗黒だと思っていた。
それは引越しの夜に、床に置かれてあった一枚の鏡のせいだった。
そばを通りかかった私は、床の上に方形の水たまりがあるのだと思った。
しかし、覗きこむとそれはあまりにも深く思われた。床にうつぶして、頬をつけると、奈落は刃物のように、ひんやりと冷たかった。
私は、鏡の中への想像的な墜落の虜となった。
ああ、墜落!

寺山修司「鏡の鉤吊り人ーピストレット」『鉛筆のドラキュラ』

見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし
かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭

寺山修司『田園に死す』

参考リンク
寺山修司全詩歌句
寺山修司シナリオ集』 (シナリオ文庫 ; 105)
鉛筆のドラキュラ : 砂男・少年探偵団から啄木・太宰まで
ドラマ 詳細データ『田園に死す
『田園に死す』撮影日誌 / 岸田理生


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?