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年明けと 生活と 言葉と

年が明けた。実家に集まった。地震があった。
そういえば、元日とか、行事とか、日付とかって人間が作ったものだったことを思い出す。

2023年は大学に入学して住み慣れた家が、実家という存在になった。一人で住むには慣れていない土地で生活を営むことも意外と難しくはなかった。色々な変化にすっかり順応していたら年も一巡していた。最近は買った時に失敗したパソコンの保護シートに浮き出る空気の泡に気を取られながら、考えることも放棄して映画を延々と眺めている毎日だ。なんとかしなくては、と思っても動く気力がない。それを見かねた見えざるものが、私にこじんまりとしたライブに行く機会を与えてくれている。

はぁ。

ため息も行き場を無くすくらい平坦。
だから年も変わるしここで何か始めようと思って、自分が普段どんなことを思っているのか、考える以前の種みたいなものを集めてみようと日記もどきを始めた。ずっと手元にあるのに初めの2、3ページしか使われていないノートを使って。
するとどうだろう。意外と頭がスッキリする。12月の18日くらいから毎日やっているわけではないけど、書くことで少々気持ちに整理がついてストレス発散の浪費癖も鳴りを潜めてきた。行き場のない思いに文字っていう姿を与えただけなのに。
でもその行為に何処か危機感も持っている。それは言葉っていう手からこぼれたものがもう二度と出会えない何かだった可能性がある。無限大だったものを限りあるものにしてしまうかもしれないことが多分私は怖いんだと思う。それが「人に伝わらなくてもいいや」で完結する自慰野郎になっている原因でもありそう。

話は変わるけど、「年も変わるから何かしよう」とか「よっこらせ」と言って立ち上がるのとかは同じだと思う。自分が動くことに理由をつけたり、励ましをしたりすることで言葉が自身の外へ放出され、それが行動を支えてくれる。すごいことだ。自分で動く理由をつけるのに、それは外部からやってきたものとして認識されるのだから。私たちはそんな場面を気付かないうちに何度も通り過ぎる。すごく鈍感。自分のことだからなお一層かもしれないけど、誰かに何かを伝える時はよりわかりやすい言葉で伝える必要がある。みんな鈍いのだから。

私にはもちろん、私以外の誰かに伝えることには言葉を使うことが日常生活ではやりやすい。他の手段もあるけど、同じ言葉を知っているのなら会話することで考えていることを伝達するのがやりやすい。伝えるにも様々な力がある。その中でも私は感情を共有して自分一人で抱える量を減らす力が強いと思う。それは目に見える協力という形でも、悩んでいたり辛かったことなどを外に発散させて風通しをよくする目に見えない形でもできる。溜め込みすぎると理性と呼ばれる自分のしっかりしているところが決壊するし、視野が自分のものだけになる。「伝える」、「会話する」にはそれらに対処するための処世術のようなものだと私は思う。

言葉は難しい。
それを応用する会話や伝える行為はもっと難しい。
2024年は言葉たちともっと仲良くなるのが目標。あとは行動することも。
あんまり「頑張れ」「頑張る」とは言いたくないから、生きることの付属で目標を達成できたら嬉しいぐらいのマインドで行くぜ。


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