狭いけど深い世界
ついさっき感じたことを備忘録のように記しておきたい。
私は文系、とりわけ社会科学系の院生である。
今日はとある偉大な先生の最終講義だった。
大学院に入学以来、コロナの洗礼に遭い、
オンラインでのほのかな出会いばかり繰り返している私だが、今回も例に漏れなかった。
この先生とは昨年知り合ったばかりなので、オンラインでしか話したことがない。
偉大な先生だということは存じているが、
専門分野は近接しているものの少し異なり、
直接自身の研究にアドバイスをいただいたりする機会は少なかった。
つまり、何人かのグループの中で、別の人の研究についてしか、話したことがなかった。
先生の最終講義には何人もの研究者が集まった。
私が偉大だと感じている他の先生方も一堂に会した。
肝心のところかもしれないが、講義の内容はここでは割愛しよう。
講義の後には懇親会も行われ、予定時間に延長を延長を重ねた会は、偉大な先生がさらに偉大な先生と慕う大先生の話題も中心となり、盛り上がった。
20世紀を生きた学者たちのあり方には、圧倒させられるものがある。
偉大な先人たちの歩みを見ていると、
私の取り組んでいることなんてあまりに小粒で頼りがない。
卓越して優秀であるにもかかわらず、
自分よりずっと努力家である先達たちの話を聞くのは、
それが直視しなければならない現実だとわかっていても心臓の鈍痛の原因となる。
残念だが、自信など持てるレベルにないことは自分が一番熟知している。
そんな切なさに思い巡らせながら会合の末席に加わっていたのだが、
こういった会合に参加すると、研究者のコミュニティとは、非常に狭いものだということを気付かされる。
研究者の世界は、広げようと思えば限界はないのかもしれないが、
研究者とは自身の研究分野に閉じこもりがちな生き物でもある。
先生たちはすでにどこかで会っていて、互いに面識があるような場合が多い。
ペーペーの私にはまだ初対面の方々も多いが、
今回も先生方同士はおおむね知り合いといった雰囲気だった。
先生方は、互いに既知の先生の話題に花を咲かせている。
それは「狭いコミュニティ」、つまり「狭い世界」だった。
私はこれまでの人生で、「狭い世界」を好んだことはそんなになかったように思う。
もちろん、気心知れた友人はそんなに多くないし、人付き合いでは少人数で話していた方が落ち着くと感じることも多い。
しかし、それはとてもプライベートな空間での心地よさについての話であって、
世界を広げ、新しいことに飛びつきたがるのが自分の傾向だと考えていた。
だが、この狭いコミュニティの中にいつか名を連ねたいと感じるようになった自分に気づき、驚いた。
先生たちは、道端を歩く人に聞いたら99%は聞いたことないと答えるような、
魔法の呪文のような響きの16世紀や18世紀の人名を、
よく知られた合言葉のように、当たり前の共通の言葉として話す。
いともたやすそうに行われるそれを、
どうしたら当たり前にできるのか私にはまだわからない。
まるで歩く歴史書たちだ。
その中に加われるようになりたいと切望する自分がいる。
それがどれほど、あまり好ましくないと思っていた「狭い世界」だったとしても、かまわなかった。
それは、「狭い世界」であると同時に、「深い世界」だからだ。
ずっとずっと地中の奥底まで、深く深く穴を掘ることに似ている。
掘り続けた者だけが、厚い知識の層の中に身を埋めていける。
それは気の遠くなる途方もない作業だ。そしてゴールはない。
研究は一生の仕事だが、永遠に終わることはない。
狭い穴を掘り続けていても、その穴はブラックホールのようなものだ。
そこにいたはずなのに、きっとある時、とんでもなく遠くに飛ぶことができるのだ。
狭く深い世界は、遥か彼方へ人を連れて行ってくれるのだと思う。
ある種の知識と心を養ったものにしか見えない時間の流れや世界があるのだ。
知識と心を手に入れられたならば、世界はどんな風に見えるのだろうか?
知りたくてたまらないと思う。
そのためには、ひたすらに穴を掘り続けるしかない。
今日も、目の前に山積みになっている本の頁を開いて、その一文字を追い続けるしかないのだ。
(写真:2016年 どこかの図書館にて)
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