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現代短歌の抱える病

※これはとても大切なミルクさんからの警鐘だと思っています。特別に許可を頂いて全文そのままを載せることをお許し頂きました。

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うまいこという選手権 (短歌のリズムで 2021年2月19日より)

短歌の上澄みの薄っぺらい部分しか見えていない作者や読者が参加して止まないのが、この「うまいこと言う選手権」です。※自分で勝手に名付けました。

うまいこという選手権に向けて作られた歌は、どんなに三十一文字(音)を守ったとしても短歌ではありません。
うまく言うことに力が注がれ、うまく言う以外に心の奥深い所が感じる要素を詠えてはいないから、結果そうなるのだと思います。あらかじめ、模型の部品のように緻密に準備され、構成や推敲を経た短歌とは全くの別物です。初心者の中には、うまいこと言うことが短歌の善し悪しだとか、神髄だなどと誤った認識の方もたくさんおられますが、直喩や暗喩の比喩を競っているわけではありません。現象と心象の二つにうまく重なったたとえが断面としてはっきり見えたとき、置き換えた言葉と共に込められたメッセージや問いかけが生きてくるのです。

勘違いの始まりは解釈の話とも繋がりますが、現象と心象の二つが明確にされていない場合に顕著に現れます。
どちらか一つが曖昧でも成り立たないのに、時にはどちらも曖昧な歌に遭遇します。
例えられる側が曖昧になってしまえば、そこからの比喩が成り立つはずなどありません。
「うまいこという選手権」に熱中して投稿しているだけで、比喩の大喜利をしているような事に終始しているのです。

現象と心象と言葉との押し問答の末にはじめて歌は練られ作られてゆきます。

おぼろげな物は鏡に映してもおぼろげなままで、更に鏡が曇ってしまっていたとしたら、尚更あいまいな輪郭しか見えてはいないでしょう。言葉との押し問答は過酷で、言葉は執拗にピントがきちんと合った景色を求めて追い込んできます。曖昧な返事では答えを返してはくれないからです。対象も、現象も、心象も、いい加減に考えて作られた歌はすぐに見透かされます。プロの歌人も気を付けていなければ、いつかは打ちのめされてしまうことでしょう。

「大切なものは見えない」とはよく言ったものですが、上っ面だけの歌に終始していると必ず時間に踏みつぶされてしまいます。何十年歌を詠もうが、何万首投稿しようが、時のふるいは容赦なく不必要なものは漉していきます。

どんなに見栄えや手触りが素晴らしいタオルであっても、渇かなければ水は吸いません。

見栄えだけで「売れればいい」「後のことは知らない」「買った人が勝手に評価すればいい」
というタオルのようになっていないでしょうか。

歌は乾燥機に放り込んでスイッチを入れれば乾く訳ではありません。
手で搾り、風に委ね、陽に晒してこそ、豊かな渇きがもたらされるのです。

タオルの本質から外れてしまわないように手間や時間や思考を加えなければ、歌はすぐにボロボロの雑巾と化してしまうでしょう。
それでも水を吸ってくれるのならまだいいのですが、きっと捨ててしまうことになるでしょう。それが時のふるいの容赦のなさなのですから。

「見て欲しい」、「読んで欲しい」、「残しておきたい」、に対して実際は、
「見たくも無い」、「読みたくもない」、「何も残っていない」になっていてはあまりに空しい限りです。

スマホもSNSもない無人島で自分一人だけになった時、心に刻まれている歌は幾つあるのでしょうか。

2021年2月19日
短歌 ミルク

↑本文、ここまでです。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/

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