自分について知るには意外と時間がかかる

よく「自分のことは自分が一番わかってる」という言葉を耳にするが、本当にそうなのだろうか?

確かに、他人が自分に対する理解度を指標にするならば、この言葉は間違ってないように思える(実際そうなのかどうかはわからない)。
しかし、これを耳にして脳みそで処理した時、「自分で自分のことはなんでも知っている」という似て非なる考えに引っ張られているのでは?

今回は私がそう思った話をいくつか紹介しよう。

小さいころ、私は親に習い事をさせられていた。主に水泳とピアノ。
家庭によって習い事を強制されるのは珍しいことでもないだろう。
当時習い始めから嫌がってはいたがやめさせてもらえずずるずると続けた結果…大して上手くもならず…
思春期に入るにつれ激化した反抗に親が折れ、結局やめてしまったが。

今思い返してみると、ピアノは実にいい習い事だった。
練習は碌にしなかったものの、
結果的に楽譜の読み方、音感や音楽センスの成長、指先の器用さなど、
現在に割と役立っているので、親には感謝しているし、
また弾いてもいいな、と思えるものである。
(当時の学校でピアノ弾く機会があるとチヤホヤされるのも👍)

では、水泳はどうか?
体力はついたかどうか怪しいし、水泳ができて得したこともあまりない。
体育の授業で水泳が楽なのも事実だが、ちょっと泳げるやつなんてごまんといるわけで。
なにより今水泳できると言われても絶対に行きたくない。
遊びで海行くとかならいいが(あまり泳がなくてすみそう)、プールで50m往復しようぜとか言われても絶対行かない。

どうして水泳は好きじゃないのか?別に下手だったわけでもないし、先生も優しかったのに、この差はなんなのだろうか?
次の話をしよう。


私は洗顔するという習慣がつい最近までなかったのである。
人によっては汚い話だが、どうか私のことは嫌いにならないでくれ。
おかげで肌はまあまあ荒れてきたので、最近は洗顔を始めた。

ではなぜ今まで洗顔しなかったのかというと、嫌だったからである。
親には顔洗いなさいと言われたこともあるが、そのたびに拒否してきた。
冷たい水が顔にかかる感じがなんとも気持ち悪い。
今も顔を洗うのに、蛇口からぬるま湯が出るまで水をちゃぷちゃぷ触って温度を確かめるものだ。
次の話をしよう。


サウナでととのうのが最近流行っている。
ととのう、というのはサウナ→水風呂→外気浴を繰り返すことで訪れる快感、トランス状態のことを言う。(マガジンど より引用)
(ととのうの健康上のメリット/デメリットには諸説あります)
私もサウナは好きだ。だがととのいはしない。
なぜなら水風呂に入りたくないからだ。
あんな寒いところに全身つかるとか正気の沙汰ではない。
友人とサウナ付きの施設に行った暁には水風呂に入り楽しむ友人を横目にその溢れた水の冷たさを足で感じるのが恒例となっている。
次の話をしよう。


私は寒いのが嫌いである。
冬が一番嫌いで、ものすごく長く感じる。


以上4つの人生の体験(?)を書き記したが、これらには共通点がある。
ある日、ぼーっと考え事をしたときに、突然!数ある記憶の中からこの4つが結びつき、私の中でその共通点、結論を出した!









私は寒いのが嫌なのである!!!!!

まあまあ、言いたいことはわかる。そんなしょうもないこと、今更気づいたんかいと。
この事を正確に記述するなら、「体温が奪われることが嫌い」
なのだと思う。
実際そうなのかは定かではないが、私の中ではこれでかなり納得している。
それにしたって初歩的すぎないか?と皆さんは思うだろう。
ところがそうでもない。(と私は思っている)
一つの出来事には多数の要素が含まれていて、何が原因でこうなったのかを特定するのは難しい。
特に私みたいな普段考えなしにその日暮らしをしている人間だとなおさらだ。
人生について振り返ることでようやく、そして偶然にその共通点に気付き、今こうして結論が出た。
これは私という一個人が生きる上で大きな進歩だと思う。自分について知ることで取る行動をより良いものに変えられる。
しかしこの結論に至るまで10年以上かかっている。
私も振り返ってみればこんな単純な事実に気づくのに10年以上もかかったのかと心底驚いている。

こういう風にまだ気づけていないものが自分の中にたくさんあるような気がする。自分のことはなんでも知っている(理解している)訳じゃないし、知るにはかなりの時間がかかるものなんだな、と、その気持ちを書いてみた。

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