650310 Last Love Letterより
歌を歌うことに関して疑問なことがいくつかあって、そのうちの一つは言葉を伸ばして歌うパートが最も本家の曲から乖離しがちな気がするってことなんすよ
そういうパートは他のパートに比べて歌唱力を要するとか、声の素の部分が表れやすいから声質の違いが目立つとか、そういったところなのか
さっきの話とは無関係にLast Love Letterって本当に名曲だよな
他の曲ももちろん好きなんだけど、本当に歌詞がいいよね
って、すげー愛だよな
そのパートだけ福岡さんがコーラスで入るのって本人からしても思い入れのある歌詞なんだろうなって思う
ラジオでの対談で、他のメンバーからもらった歌詞を削りたくなることはないのかって質問に対して橋本さんが、手書きのノートで歌詞をもらって消したり書き直した跡があって完璧な状態で渡されていると思ったら削りたいとは言えないって言ってて、↓
あと、school of lockの染まるよ回で、『染まるよ』の歌詞の背景にあるエピソードを聞く前に作曲してよかったと語るのもあって、↓(10/7 染まるよ回)
こういうのを聞いて感じるのは、歌詞をめっちゃ大切に思ってるんだなってことっすね
(染まるよの方はこの話の限りだと歌詞の本意とは離れていることになるんですけど、作詞者としても自らの過去を昇華することで作詞してるはずなので、背景を知ってからの作曲だと先祖返りっぽくなってしまうことから、本手順でよかったのではと捉えてます)
そりゃそうだし、めちゃめちゃ浅いこと言ってるんですけど、これまで何というか自分の歌詞を自分で歌える状況で歌わない人がどういう感情なのかってのが気になってたんですよ
たとえば秋元康氏みたいに完全に誰かに提供するために歌詞を書く人は、作詞家として自分の詞を他者が歌うことにほとんど何も思わないだろうけど、
福岡さんみたいにステージに立って目の前にマイクも用意されていて、ボーカルはいるし自分の役割はベースって決まっているとはいえ、歌うチャンスがある人は自分の詞を他のメンバーが歌うことに何とも思わないのかってのが少し疑問だった
というのも、歌詞ってかなり自分自身の内面をさらけ出して映し出すものじゃないですか
もちろんファンタジーな内容とか、本人からかけ離れた内容を綴ることもあるだろうけど、そういう内容であれ、その人の世界の捉え方が出るわけで、ある意味でその人の内面にあたるんですよ
となると、歌詞ってほとんど自分の分身と言っても良いくらいのものであって、そんな歌詞を他者が歌うのって不本意というか、残念に思うところは少しはあると思うんですよね
まあ、これは今これを書いている私の自己中心性による偏見なんで、実際のところはわからない
ただ、メンバーが書いてきた歌詞に対する橋本さんの姿勢ってとても真摯で誠実なもので、そんな橋本さんに歌詞を託す際には先ほどまで書いてきたような負の感情は起こりにくいかもしれないなとなった
おそらくこういう話ってバンドに限らないもので、分業化の進んだ現代ではあらゆる場面において言えることでしょう
自分のつくるものやサービスに思い入れがある人であれば誰でも該当しうる
だからこそ、つくる側なら『人生は夢だらけ』で言うところの
ってスタンスで生きるのがいいんだろうなと思うし、
つくったものを受け取る側なら、“違いのわかる人”になって、いや、まあそれは一歩先の話で、つくった人への尊敬とか、作品への尊重とかそういうのが前提ってことになりますかね
冒頭で挙げたLast Love Letterの歌詞、めっちゃ良いよな
片思いしてからマジでこの歌詞がわかるというか、片思いしてからチャットモンチーの曲を聴き始めたから書き方的に時系列が逆なんだけど、すげーわかる
歌詞全体を通して見ると、私の捉え方は若干ズレている気がするし、木を見て森を見ず感が否めないのだけど、それはそれでいいんですかね?
まあ、あれですよね
作品が作者の手から離れたら受け手に委ねられるみたいな話よな
ロラン・バルトでしたっけ?
さっきまでの話とは別件ってことなんですかね
それとも両立しうるものなんかね
ちょっと眠いし、タスクが複数あるのでそれ終わり次第覚えてたらやるかもしれない
Last Love Letterってタイトルにするとき、少しはBase Ball Bearが脳裏によぎったのではなかろうか
今日の一曲
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