すばらしき無駄遣いのために

バタイユの『呪われた部分』を読んだ。

私たちは、お金やモノがぐるぐる回るのが「経済」ぐらいに漠然と考えがちだけど、バタイユさんはこんなふうに言う。

「全般的な経済」っちゅーのんがあってやな、地球上に生きとし生けるもんの活力みたいなもんが、グルグル回っとるゆうことなんや。太陽の光を浴びて植物は育つし、動物や人間は動くやろ。有り余る活力を与えられてるんや。ほんでそれは、つまるところ何かを生産するためのもんと違うて、何かをドバーっと無駄遣い(蕩尽)するためのもんなんやで。(ひどい意訳)
その活力、エネルギーみたいなもんは、それは目的もなく意味不明なもんをこさえたり、無駄にぜんぶ捨ててしもたり、ケンカしたり、スケベしたり、ドカ食いしたりする。そういう野生のパワーみたいなもんで、キレイなもんではないけど、これは常に余ってて、使われるのを待ってるんや。使ったとき、精神の「奥」に手が届くんやで。ある意味それが、生きてるっちゅうこっちゃ。(ひどい意訳)

こんな感じのことが書いてあった。読んでる最中から、ずっと次のような問いが頭を回っていた。「大量生産・大量消費は、バタイユのいう“全般的な経済”において、是か非か」というものだ。

ようするに、「ラクしながら節約して生きるのか、たくさん稼いでたくさん使って生きるのか、どっちが気持ちええんやろ?」というのが、自分のなかのテーマとしてあり、それをクソデカくしたものが先ほどの問いである。

読んだあと、モソモソと考えてみて、ひとつの結論にたどり着いた。誤解を恐れずに答えからいうと、「非」である。もしくは、「どっちでもない」。

カレー食いてえ

たとえお金がアホほどあっても、それを使えなければ気持ちよくも楽しくもなれない。おいしそうなカレーを前にして「待て」をくらったら、ぜんぜんおいしくはない。

物は、それ自体では何にもならない。物を「消費する」ことで、はじめてイイ感じになれる。ほんとうのメインディッシュは「食べること」であり、だいじなのは「もの」ではなく「こと」なのだ。物はたんなる橋渡しにすぎない。

ところが近代は、なにもかもを「物」的に捉えるような時代だ。私たちは時間さえも計算可能にして、切り詰めたりしている。「もの」と「こと」について考えた記事はこちら

かといって、人間の身体も「物」であるし、物がなければ生き続けることはむずかしい。けれど、「物」を追求するにしても、なんのための「物」なのか?ということを忘れては、いつまでたってもカレーが食えない。


「今」でしょ

大量生産・大量消費には、「今現在」がない。「今現在」を空っぽにして未来のための生産に注ぎ込むのは、あとでたくさん消費したいから。その点だけなら、バタイユ・グッドだとは思う。(ソーシャル・グッド、みたいに言うなし)

けれど、未来で受け取る予定のそれは、「過去に約束された生産物」であって、不確かな未来を無理やり安定させようとした結果のシロモノなのだ。

計算ずくの消費、プランニングされた旅行、タイムスケジュールきっちりのパーティ。これは、ほんらい揺れ動くからこそ無限に近い可能性を持つ「今現在」から、すっかり生気を奪って保存された、キレイなミイラなのだ。その消費は、「無駄遣い」(蕩尽)にしては、あまりにキッチリしている。だからこの点においては、バタイユ・バッドだ。

たとえば音楽を聴いたり、人と話したりしているとき、「時間を忘れてしまう瞬間」と「期待はずれ、もしくは予定調和なひととき」が、それぞれある。前者のほうが、圧倒的に生きた時間だなと思う。


奥で会いましょう

「内奥性」とバタイユはいう。表面の手ざわりからは推し量れない、精神の奥のほう。太陽の光や、それが生み出す「全般的」なエネルギーは、私たちをそこに連れていこうとする。

そこには、自分も他人も、敵も味方もなく、ごちゃまぜのエネルギーが渦巻いているのだ。なにが飛び出すかわからないびっくり箱だ。そこにアクセスできる地点は、いつか約束した未来ではなく「今現在」だけなのだ。

バタイユはさらに、「自己意識」とも言う。自己っていうのは、オシャレに撮った自撮りでも、SNSのアイコンでも、友だちの前でのキャラでも、妄想の中にいる理想の自分像でも、たぶんない。意識そのものを感じられる意識、物に縛られていない意識、ただこの瞬間にスパークしている意識なのではないか。

それはたしかに、気持ちのいいもんだよなぁ。人生にいくつかは、あったな。

あとどれだけ「今現在」に接続できるだろうか?そのために何が必要だろう?時間がたくさんあれば、チャンス自体は多くなるだろう。お金がたくさんあれば、橋渡しになる物が多く手に入るだろう。しかしもっと大事なものは、そのどちらでもなく、よそ見をしないで今現在に向かっていくスタンスなのかもしれない。

ただし、「奥」は危険な場所だともいえる。暴力性さえ含まれた、ごちゃまぜのカオス。余ったエネルギーは、人を殴ることにも、盛大にご馳走することにも使える。殴るなら、素敵なプレゼントで殴るといいかもしれない。使い方しだいだ。(バタイユさんは、戦争じゃなくて、見返り度外視の国際支援とかにエネルギーをつこたらええやんけ、と言っていた)(なんでずっとバタイユさん関西弁なん?)


あいだ

ところで、「今現在」っていうのは、「あいだ」でもあると思う。何かと何かの境目や中間。枠にはまりきっていないもの。どちらにも動ける状態。この「あいだ」の感覚を持ちながら、「今現在」を感じとりながら、柔軟に生きていきたいなあ、などと思った。抽象的だな。

さあ、明日からどう生きてこう?

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