マイノリティとして生きた私の、10代のころのサバイバル術
こんにちは。ドイツ在住のpeppinaです。
先日、話題になっていたtommie116さんのnote「元帰国子女の言語バランスとアイデンティティ言語」に加えて、改めて「元帰国子女の軌跡」を拝読し、自分の過去について考えるきっかけになりました。
今回は、ティーンエイジャーの頃、ドイツと日本の生活環境が、私の性格やアイデンティティにどのような影響を及ぼしたかについて振り返りたいと思います。細かいニュアンスを伝えるために、具体的な体験談を綴っています。
私は、下記のように、日本とドイツを行き来してきました。今となってはドイツの割合が少し多くなってきましたが、ほぼ人生の半分ずつを過ごしています。22歳以降は自分の意志で移住しています。
多感な10代に、アイデンティティについて沢山悩んだ経験があります。今でもそれが揺らぐことはごくたまにありますが、ドイツと日本をそれぞれ一通り攻略した感覚があるからか、現在は疑心暗鬼にならずに、自分は「ドイツ人であり、日本人である」と胸を張って言えるようになりました。それどころか、自分がこのような運命で、別に良かったんじゃない?とさえ感じています。今回は、そう思えるようになるまでの道のりをまとめてみました。
🇩🇪 小1〜4:アイデンティティと言語形成
私は、1996年に、ドイツ・ミュンヘンの隣町で生まれました。小学生の頃、一番得意な科目は国語、つまりドイツ語でした。音読や作文が得意で、頭の中はファンタジーに溢れていたので、将来は舞台作家か小説家になりたいと考えてました。
「父とはドイツ語、母とは日本語」という家庭内ルールもありました。しかし生活の基盤はドイツ語だったので、週末の日本語補修校は、友人に会えること以外は、正直めんどくさいと感じていました。特に漢字テストが嫌で嫌で仕方がなかったことを覚えています。ただ、昔から日本語に苦手意識があったわけではなく、幼少期から日本とドイツの家族間の会話を進んで通訳するような子だったので、完璧さを求められないうちは日本語も好きでした。
私が通っていた小学校は一緒に登下校しやすいよう住んでいる地区によってクラス分けされていました。私の周辺は、移民もある一定数住む地区で 4クラスある中では外国にルーツを持つ生徒が最も多いクラスでした(とはいえ4分の1程度)。
🇩🇪 小1〜4:マイノリティとしての自覚
私はドイツと日本のミックスですが、アジア寄りの顔をしています。当時から、自分や周りの友達に対するマイクロアグレッションが存在していました。例えば、とあるドイツ人の先生は、私とトルコ人生徒のTちゃんの見分けが付かず、間違えてしまうことがよくありました。また、ある日、アルバニア人のDちゃんとドイツ人のCちゃんのテストの解答がかなり似ていたことがあり、アルバニア人の子だけが呼び出されカンニングを疑われました。私はその話を聞いて、学校に対して強い違和感を覚えました。
同世代の悪気のない差別に遭遇することもよくあり、そのシーンは今も鮮明に覚えています。プールに行くと、知らない小学生にしつこく「チンチャンチョン」と揶揄われたり、黒人の男友達は「チョコレート」と言われたり。自分や周りがこのような差別に遭うことを、小学生の頃から目の当たりにしてきたので、ドイツ語に全く不自由していないのに、なんとなく「私はマイノリティなんだ」という自覚がありました。
🇩🇪 ギム5:生まれ故郷を去る
ドイツの小学校は4年生までです。その後は、主に大学進学コースと専門職コースに道が分かれます。私の成績は特別優秀というわけではないものの、ギムナジウム(大学進学を目指す中高一貫校)に進学することができました。小学校の4年生からギムナジウムの5年生に上がると、周りの同級生は一気に大人っぽくなります。また、最大7〜8つ上のお兄さんお姉さんたちも同じ校舎に通うので、小学校とは雰囲気がガラリと変わります。
進学時に、楽器を習っているかチェックする欄があったので、ゆるーくピアノ教室に通っていることを記入すると、何かしら音楽をやっている生徒だらけのクラスに振り分けられました。そこから、5年生ながらも夕方はバンドの発表会やちょっとしたパーティが開催されるようになり、毎日をエンジョイしていました。
一方、その頃、家に帰ると両親の喧嘩は止まず、いつも2階の階段に隠れて喧嘩話を盗み聞きしていました。そして、ギムナジウムに通い始めて半年が経ち、毎日が新鮮で刺激的だったところに、親の離婚、そして母と私たち姉妹の日本への引っ越しが決まります。この頃の記憶はほとんどありません。悲しくて不安だったのか、意外と大丈夫だったのかよく覚えていません。ただお別れ会を開催し、ピアノと歌が得意な友人2人がセリーヌディオンの『My Heart will go on』を披露してくれたことだけなぜか覚えています。(笑)
🇯🇵 小5〜6:サバイバル術のトライ&エラー
日本の入学シーズンに合わせて4月に引っ越しをし、京都にある小学校の5年生のクラスに転入しました。外国にルーツを持つ生徒はクラスに私一人。異世界に転がり込んだような感覚でした。当時の担任の先生は、親切に、独和辞典を教室の本棚に置いてくれました。同級生たちは、私が外国から来たという事実に興味津々でした。特にいじめられたという記憶はありませんが、タカアンドトシの「欧米か!」というネタが流行っており、何かにつけてそのツッコミを受けていました。
ドイツでは、日本のお笑いやテレビ、漫画やアニメなどを何も見ずに育ったので、とにかく周囲が話したり笑ったりしていることの背景を把握することに精一杯でした。皆が興味のあることを一緒にやってみる。自分の趣味や興味関心なんてものは二の次です。
サバイバル術はいたってシンプルでした。自分が積み上げてきた過去は一旦白紙に戻して、生まれたての赤ちゃんのように全てを真似る。学ぶ。スポンジの如く何でも吸収するのだ。そして、忍者の如く目立たずにその場の空気に忍び込むことができればミッションクリア。研究に没頭するかのように、毎日人間観察の日記を付けていました…(怖い)
🇯🇵 中1:アイデンティティの崩壊
中学校に進級してからも、インプットに徹する受け身の体制が続きます。学校の授業用の字と友達との手紙交換用のギャル字の使い分けもすぐに身に付け、ある程度うまくやっていました。
日本では、デコログやmixiなどのSNSが流行り出した一方で、ドイツではFacebookが普及してきていたので、私も登録してドイツの友人を片っ端から追加していました。ギムナジウムも2年目、3年目となりドイツの友人は皆、おませさん。ドイツの若者はパソコンやデジカメで撮った写真にフィルター(セピアなどw)を付けて、今で言う"インスタ映え"な写真を毎日UPしていました。ドイツに戻る予定もないのになぜか、地球の反対側にいる友人に置いていかれたくない、忘れられたくないと必死になり、毎日コメントやメッセージをしていました(黒歴史ですね……)。中学では一瞬卓球部に入部するもすぐに辞めて帰宅部になり、学校終わりには毎日パソコンに張り付いていました。母子家庭で、母は毎日仕事に出掛けていたので、特にバレたり叱られたりすることもありませんでした。この頃は不健康なSNS中毒だった気がします。
「私も今頃友達や彼氏とのイケてる写真を載せるドイツのティーンエージャーになれたはずなのに、日本でダサい制服を着させられ、髪を染めたり化粧をしたり自己表現が制限されている世界に閉じ込められている」……隣の芝は青いのか、SNSの影響でネガティブな気持ちに拍車が掛かります。
日本でも徐々に、自分が憧れるような人たちがいる、居心地のいいグループの一員になることに成功しますが、日本へ引っ越してから、周りから浮かないようになるべく元々の性格や個性をなかったものにしていたので、少しずつ「相手が正しくて、自分の考えは間違っている」というマインドになっていき、自信とプライドは完全になくなりました(この後遺症は今でも少し残っています)。ドイツにいた頃の、音楽やファンタジーが好きな、意志の強い自分はもうどこにも見当たりません。一方で、なかなか治らない習慣や癖もあります。例えば、気を付けているつもりでも、無意識に腕を組んでしまったことを「こわい」と指摘されるたびに、自己嫌悪に陥っていました。
🇯🇵 中2:諦めと解放
中学2年生になり、私は日本に来て4年目になります。ここまでマラソンを全力疾走し続けるような毎日でした。いずれ高校受験もあるし、授業にも付いていく必要がある。でもクラスメイトとうまくやっていくためには流行もキャッチしなければならない(日本のテレビや漫画などのエンタメは誰も興味ない家庭だったので、友人の情報なしでは触れられない環境)、その一方で、ドイツの友人に忘れられないようにSNSもチェックしたい。私の頭の中は大渋滞でした。
そんなある日、自分の中で糸がとつぜんプツっと切れてしまいます。きっかけはよくわかりません。もう全てに疲れてしまったのです。
その日から、私は学校で喋りかけられてもなぜかボーとしていて、自分から積極的に話しに行くこともせず、仲良かったクラスメイト3人の隣に、ただ無言で立っている、そんな日々が自覚なく続いてしまいます。そして、とうとう3人から個別に、同じタイミングで同じ文章のメールが届きます。「peppinaが最近何を考えているか分からない。一旦距離を置きたい。」と。陰湿ないじめを受けたことはありませんが、その日からグループから外され、避けれられるという経験をしました。ただ、自分も鬱っぽかったので仕方ないと思い、彼女らを憎むことは一度もありませんでした。それからは、休み時間は特に席から立たず、喋りに来てくれた優しい子たちの話に一応受け答えする程度。心の中は空っぽで、クラス替えがあるまで空白の一年間が過ぎていきます。この年に東日本大震災も発生し、孤独と不安が募ります。
当時、母は学校での出来事を把握しており、味方になってくれていた記憶があります。私をよく褒めてくれていて、近所の人や知り合いと会う時も、娘が勉強をとても頑張ってくれていて誇りに思ってるということを伝えていました。成績も中ぐらいだった私は、なぜわざわざ褒めるんだろうと疑問で、少し恥ずかしかったのですが、思い返すとそのおかげで自己肯定感をある程度保つことができたと思います。
その後、アメーバブログで「ハーフコミュニティ」をたまたま発見し、兵庫県や愛媛県などに、同じようにミックスルーツの同世代がいることを知りました。私と共通の悩みも持ちながらも、自分らしく楽しくかっこよく生きている姿に胸を打たれ、少しずつ希望を持ちはじめます。そして、"みんなと同じであるべき"という柵から次第に解放されていきます。
🇯🇵 中3:運命を変える出会い
季節が巡り、クラス替えが行われる春がやってきました。クラスの第一印象は、なんとなく雰囲気がいい…!一年間の"病み期"を乗り越え、前向きな気持ちで新学期のスタートを切ることができました。前年の反省を活かして、今年はあまりグループに縛られず、いいなと思う人と仲良くする。そんなことを目標として掲げていました。
しかしそんな夢も儚く、すぐにとある女の子に「peppinaはどっちのグループに所属したいの?」と、選択を迫られてしまいます。もう本当にめんどくさい!と諦めモードに入りそうなところ、たまたま同じクラスになった 学年一のボス的存在の姉御ギャルYちゃんに目を付けられます。「peppinaが好きなときにフラッと顔出したらええやん!」「今日は〇〇んちで遊んでんで!」、いつでもおいでと両手を広げて歓迎してくれているようでした。この瞬間に、初めて日本社会に受け入れてもらえたと、心の底から実感しました。彼女はクラス全員を巻き込むのが得意で、毎日集まって遊んでいたメンバーも男女10人以上から成るオープンなグループでとても気が楽でした。
今までどちらかと言えば隠してきた自分のルーツについても、Yちゃんは目をキラキラさせながら、ヨーロッパのトレンドなどを積極的に聞いてきてくれました。そんな感覚は久しぶりで、私がSNSを通して"かっこいい!"と思っていたようなことをようやく日本の友達にもシェアすることができ、純粋に嬉しかったのです。
🇯🇵 中3:アイデンティティの再確立
アイデンティティクライシスから抜け出し、中学3年からは、自分のキャラをイチから作り直すフェーズに入ります。Yちゃんはツッコミが得意で、周りを盛り上げるタイプだったので、私は意識的にボケ担当に回ろうと考えました。自分の感性などはやはり日本でずっと育ってきた子と微妙に違うので、それを個性として捉えて武器にしようというというサバイバル術第二弾を考察するようになるのです。当時、私はその友人たちと過ごす時間をとても居心地良く感じていて、仲間として大事にされている実感が100%あったので、自分の「ボケ(つまり、人とズレている感覚)」で、笑ってもらえることは全く嫌ではなかったです。しかし、それは私とYちゃんとの間に、ボケとツッコミの役割分担と信頼関係がしっかり構築できていたからであり、ランダムに誰かに、私のいわば特殊性を笑われたりすることは、昔も今も当然傷付きます。
この頃、私たち家族は、母の新しいパートナーと一緒に暮らすことが決まり、家での喧嘩が絶えなかったところに、今度は逃げ場が友人たちのところにあったことに対して、私は本当にラッキーだったと感じています。家出をしたときに、最終的にはYちゃんちに泊めてもらい、朝はYちゃんのお母さまにおにぎりを持たせてもらって学校に行くこともありました。(本当にお世話になりました…)
友人たちの実家でゴロゴロしたり、二人乗りをして、マクドや安い焼き肉食べ放題やカラオケへ行ったり、ショッピングモールでプリクラを撮ったり、ようやく日本の普通のティーンエージャーとして何気ない毎日を過ごすことができて、今思い返しても、これまでの人生で一番、一瞬一瞬の幸せを噛み締めていたと思います。今でも中3の友人たちとは一時帰国のたびに集まっています。それぞれ仕事や結婚、子育てなどライフステージは異なるのに、会ったら当時と変わらない遊び方をしています。
🇯🇵 高1〜3:アイデンティティの安定
中学卒業後は、地元から少し離れた、英語に注力している私服の公立高校に進学します。帰国子女やミックスルーツの子がクラスに複数人もいて「あれ?こんな身近に、こんな世界があったんだ」と逆カルチャーショックを受けます。それからは、平和に穏やかに三年間を過ごし、むしろ日本人としてのアイデンティティがどんどん色濃くなっていきます…….
このように、私がドイツから日本へ引っ越しして5年目でようやく日本社会に馴染むことができました。「日本社会」という言葉をあえて選んでいる理由は、10代のころは学校が全て=社会だったからです。もちろん私よりも適応能力が高かったり、逆に、そこまでして貪欲に人間と関わる必要がないと思う人もいるでしょう。日本とドイツの両方に大切な人たちがいる今、私はこれでよかったんだと思えています。
子供ながらに「自分は何者なのか?」という問いを何度も立てざるを得ない環境に身を置いてしまっていたため、アイデンティティの構築にあたって→①自分の個性を一旦抹消する→②自分のキャラを周りの反応を見ながら作り上げる→③自分にとってちょうど良いバランスを見つけるという三段階のプロセスを踏んでいます。そのため、かなり捻くれた人間になってしまいました。しかし、私なりに、良くも悪くもサバイバルしようとしてきた結果であり、今ではそんな自分も人間味があっていいと思っています。
後遺症としては、大学生くらいまでは「なんでもいいよ」が口癖で、決定権を相手に委ねてしまい、友人や過去の交際相手に意志がないと言われたことがあります。また、何かを言われると「自分より相手が正しいんじゃないか」と気弱になり、なかなか自信が持てない時期がありました。しかしそれらは、ドイツへ戻ってきた今、再度鍛えられつつあります。
そして、現在は、日本語とドイツ語の「言葉」を操る仕事に就いたので、今度は「どちらの言語も人並み以上にできて当たり前」という環境に身を置いています。私の奮闘記は、まだまだ続きそうです。
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