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元帰国子女の軌跡

2018年の夏に国際結婚🇩🇪🇯🇵に伴い海外生活を始めました。
我が家は子供はいないのですが、本来なら実子の教育について悩んでいて全くおかしくない年齢でもあり、また周囲も子育てに関する話題が多いこともあり、生活が落ち着くにつれ、身に迫って子供のこと、そして子育てについて考えるようになりました。

実は私自身が海外生活は初めてではなく、子供の頃に通算で約10年間海外に住んでいた、元帰国子女でもあります。元帰国子女である私が当時どんな勉強をし、何を思い、結果としてどのような状況になったか…子育てについて考えるにつけ、オーラルヒストリーのように自らの軌跡を追ってみることには意義があるかもしれないと思い、当時と今では時代も大きく変わっていますが、今後の自分のためにも経験を整理をすることにしました。

主旨からすれば滞在国・都市と教育システムを明らかにした方がより理解しやすいのかもしれませんが、何しろ遠い昔のため現在は教育システムを含め諸条件が変わっていることも大いに想定され、今現在滞在されている方に余計な波紋を引き起こしたくなかったこともあり、伏せさせていただだいています(読む方が読めば推測ができるかもしれませんが)。SNSどころかインターネットも生活に浸透していなかった時代の話ですので、今の時代からは想像もつかないこと、既に変わっていることもあろうかと思いますし、逆に時代を超えた、本質的な課題も含まれているとも思います。

なお、本記事はバイリンガル育児・海外育児のHow to、価値付けは一切意図していません。あくまでも私自身の幼少期の学習面からの記録ですので、いわゆるセオリーに照らしてどうかは判断していませんし、本文中のやり方を推奨するものでもありません。あくまでもケースの1つとして読んでいただければ幸いです。

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前提

我が家は両親共に日本人で、父の仕事の都合で海外転勤を繰り返す家庭でした。言語状況としては父親はフランス語で専門的に仕事ができるレベル、英語はA2程度。母親はフランス語英語共にA2レベル程度。共に海外で育った経験はありません。

私の海外経験は大きく二期に別れます。第一期は物心つく前、生後3ヶ月でフランス語圏の国に渡航し、そこから約5年強海外で暮らし、幼稚園の年長のタイミングで帰国したのが初めての長期海外です。
ただし、母親は専業主婦で、現地では日本人が経営する幼稚園に通っていたため、家の中と幼稚園は日本語、お友達も日本人という海外にいながらほぼ日本語の環境でした。また、たまにお願いするベビーシッターなども外国語レベルがさほどでもない母とのコミュニケーションを重視して(そしておそらく母のメンタル面のサポートの意味も込めて)日本人の方にお願いしていたようです。このとき外界の言語であるフランス語はTVを見たり絵本を読んだり、レストランやご近所さんに愛想よく挨拶などはしていたようですが、結果として総合的にはほぼ日本語で完結していました。

その後幼稚園年長〜小3の間は日本に滞在。公立小学校で、他の日本人の子供と全く同じように学びました。ですので、私自身の母語は日本語ということになります。

再び海外赴任する父の都合で、小3の12月から中3に上がる直前までの約5年間、家族(両親、私、2歳下の弟)で2ヶ国(共にフランス語圏)に滞在しました。

この記事ではこの第二期について、学年別に①何を勉強し②当時何を思ったのかの2点を中心に、当時の日記と成績表を手がかりに見ていこうと思います。なお、複数国にまたがって子育てをする場合、言語そのものだけでなく、算数や社会など各教科の勉強についても色々と課題があろうかと思いますので、その点についても可能な限り記述しています。

なお、現地校は9月から新学期で6月末〜7月に終わるタームを取っており、また現地も2つの国に跨がることもあり、厳密には日本の教育システムと対照しないのですが、読みやすさを優先して日本の学年ごとに区切りました(私は12月生まれのため、その前提で振り分け)。したがって、外国語の欄を読む際にはその点をご留意いただければ幸いです。

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小3

日本語
小3の12月に渡航。日本人学校も、補習校もない場所だったため、必然的に日本語は自宅学習になった。当時は海外子女教育に今ほどの教材のバリエーションはなく、海外子女教育振興財団の通信教育講座がほぼ唯一といって良い勉強手段。これは月1回の添削があり、結果がコメントと共に返ってくるのが嬉しく、必ず送っていた。他にいくつか児童書と「漫画世界史」が家にあったのを覚えている。
当時はネットもなく、私たちが住んだ都市に日本人の同年代の子は他に一組しかいなかったので、家族以外の主な日本語のインプットは極めて限定的で、定期的に日本から送ってもらっていた「小学三年生」と、雑誌「りぼん」が貴重な機会だった。子供向けの番組などを祖母がVHSに撮ってくれたものも見ていたのかもしれないが、現地で放映されていたフランス語のカトゥーンと呼ばれるアニメに比べ、全くと言って良いほど記憶に残っていない。
この頃は日本の記憶がまだ鮮明なこともあってか、日本語の勉強に対しては最低限の通信教育のみで重点も置いておらず、むしろ突如として生活に現れたフランス語に集中している。

フランス語
学校はフランスのカリキュラムに準じた学校に転入した。生徒はフランス人だけでなく、フランス語圏カナダ人、アフリカ人など多国籍で、授業はお昼までで終わり、午後は家庭教師に週2回(火曜日と木曜日)各2時間。家庭教師にはフランス語を初歩から教わり、ほかの日は自宅学習。
はじめの数ヶ月は授業は何もわからず座っているだけ。ごく幼少時にフランス語圏に住んでいたとはいえ、全く語学の蓄積はないためゼロからのスタート。授業内容はわかっていないせいか私自身もあまり覚えていないが、通信簿をみると国語(=フランス語)、算数、体育、美術(éducation artistique)があったようだ。

宿題は当初そもそも何が宿題かすらわからず、先生に特別に書いてもらっており、とても恥ずかしかった記憶がある。全て家庭教師とやったり、家庭教師がない日は父親に手伝って(実際にはほぼやってもらって)いた。前半は泣きながら宿題をした覚えしかない。「わからないからやれない」「やらない」と駄々をこねたことは何度もある。あまりにわからないので、宿題をすることをそもそも諦めてしまい、父親にやってもらおうとする私に対し、「パパだって仕事のあとで疲れてるんだから、なるべく自分でやりなさい」とよく母親に叱られた。ただ先述のとおり母親の語学レベルではそもそも宿題は手に負えなかったので、「そんなこと言うなら自分がやってみれば良いじゃない!できもしないくせに!」というようなことを泣き喚いたのは覚えている。

今から考えればこれは母親をものすごく傷付ける言葉だったとは思うのだけれども、海外にいた当時は母親が語学ができないこと、そもそも学ぼうとしないこと、自分は語学面で父に頼りっきりなのに子供には厳しいことが本当に苛だたしかった。母の献身的な子育てにも関わらず、私は海外生活を通じて「母はわかってない」と溝が深まったのだが、おそらく根底の原因がここにあると思われるので、あえて記載しておく。ただし、低学年の子供2人を異国で育てる母に落ち着いて語学を勉強する時間はなかったというのも、今はわかるけれど。

小3というのは微妙な時期で、言葉がわからなくても鬼ごっこやらでなんとなく仲良く遊べるという年齢は過ぎていたせいか、学校へ行っても人間関係の中に入れず、特定の子の後にくっついて回っていたのだと思う。この時期友達と積極的に遊んだような記憶はない。

成績表は一貫して低評価で、特に国語(フランス語)の「指示を理解する」「読む」「表現する」などの項目が極めて低い(20点満点中4.5点など)。体育や美術なども、当たり前だが先生の指示がわからないので何をするにもワンテンポ遅れて、周りがやることを真似してやる、ということしか出来なかったので、創造力を発揮できるどころの話ではなく、成績は良くなかった。
当時は知らなかったが、私の成績ではこの学年は落第対象だったとのこと。ただようやく仲良くなれた友人と離れると精神的に持たないのではないかと判断した親が学校と相談し、落ち着いてフランス語を伸ばすために落第を強く勧める先生の反対を押し切って無理やり進級することになったようだ。この事実は私が大人になってから思い出話のついでに知らされたが、後から振り返ると、この時に無理やり進級させてもらったことは私にとっては良かったように思う。実際次の学年でフランス語は大いに伸びている。
ちなみに弟も同様の状態で落第対象だったが、私より社交的で、色々なお友達を作り積極的に遊べていた弟については、学年を下げても問題ないだろうと判断し、先生の勧め通り一学年下げている。弟のケースは一年下げて正解だったようだ。

余談だけれど、フランスのカリキュラムに基づいた学校なので万年筆で書くのが義務だった。フランス語の綴りもそもそもぱっとわからなかったので、1回しかきれいに消せない万年筆(当時はホワイトの質も悪かった)は書く前にものすごく躊躇してしまって、周りに比べて書くスピードがものすごく遅かった。当然筆記体は書き慣れずうまくも書けなかったので、成績表の「文字を書くこと(orthographe)」も低い点数になっている。ただ万年筆そのものは綺麗で大好きで、色んなデザインのペン軸を買ってもらっては、違う色のインクを入れて楽しんでいた。

ちなみにこの当時は電子辞書がなく、単語がわからない時にすぐにその場で日本語を確認する、ということができなかった。家には紙の仏和辞典もあったが、そもそも大人向けのため読めない漢字も多かったし、日本語で概念を知らない単語は当然理解ができなかった。
学校で使う辞書は子供向け仏仏辞典だったこともあり、早い段階から仏和は使わず、つまりフランス語を日本語に置き換えず、フランス語のまま理解するようになった(そうせざるをえなかった)。従って、単語量の伸びはあくまでその場で自分がフランス語で説明されて認識できる程度のものしかなかったけれど、そもそもフランス語の単語量が圧倒的に少なく理解力も低いので、全て歯抜け状態で隙間は自分の想像力で補って理解していた。
よってこれ以降、私の世界は基本的にはフランス語の世界と日本語の世界にきっぱりと分かれた。インプットは圧倒的にフランス語の方が多く、考えることも徐々にフランス語にスイッチはしていたと思うが、語彙量の少なさから、限界があったろうと推測される。フランス語に対応する日本語については、親から説明してもらって理解できたものだけ日本語とフランス語が繋がっていたが、すべての新しい単語を親に聞いたわけではないので、日本語と繋がった単語はさほど多くはなく、うまく日本語とフランス語を行き来できる思考回路があったわけではない、という状態であったように思う。

小4

日本語 
引き続き通信教育講座が中心。加えて、同じ年齢の日本人家族もう1組と合同で親が「私設補習校」(もちろん非公式、全て手弁当)を開校し、母親自身が教師となって週2回授業を開始。科目は国語、算数、社会、理科。もう一人のお母さんが教員免許を持っていたこともあり、この方と母で教科書をベースに手作りプリントをたくさん作ったり、習字教室や折り紙教室など、色々と開催してくれた記憶がある。プリントは特に掛け算や割り算の筆算、漢字の書き取りに力を入れていた。これにフランス語の家庭教師を入れると、週4日は固定的な学習時間をとり、それに加えて宿題や通信教育をやっていたことになる。他に習い事などをする余裕はなかった。
また、祖母の勧めで渡航後1年経った頃から日記をつけだした。祖母なりの日本語力向上のためのアドバイスだったと思うが、この日記という手段が私にはとても合っていたようで、その後今に至るまで、毎日ではないが継続しており、人生の要所要所で大きな精神的な支えになってくれた。親を含めて誰にも見せない日本語のアウトプットの場で、好きなことから悩みまで自由に書き、添削も受けていない。なおこの頃の日記は日本語のインプットが限られているせいか、オノマトペや、漫画の主人公のモノローグのような記述が多い。
この夏は一時帰国しており、その際日本の小学校に1日体験入学をした。とても良い体験になっていたようで、日本で友達ができたことに対する喜びなどが日記に書かれている。その中の1人と文通を始めて、日本語のモチベーションにしていたようだ。

フランス語 
現地校は高学年になったことで科目が増えた。国語(=フランス語)、算数、体育、美術に加え、幾何学(géométrie)、地理(géographie)、歴史、公民(éducation civique)、理科(sciences technologie)。
家庭教師は引き続き週2、各2時間。相変わらず宿題は自分では全てできなかったが、フランス語が一番伸びた時期である。
この頃の授業で記憶に残っているのが詩(poésie)の授業。これは国語の一環なのだが、古い詩から現代詩まで、週に1つ皆の前で立って暗唱しなければならず、ひたすらお風呂などで暗唱の練習をしていた。古い詩は意味もわからず、替え歌のようにして音で覚えたことを覚えている。詰まったり、最後まで暗唱できないと次の時間は1時間廊下に立たされるので、これが恐怖でたまらず、必死で覚えていた。ただし、あとから考えればこれはフランス語のリズムを掴み口を慣らすのにとても役立ったように思う。
文法(grammaire)の授業はこの時期仮定法や接続法など授業で国語として習うのもあって、ほかのネイティブの子供たちと同時に習うものも多く、どんどんと吸収していった。grammaireの授業を通じてフランス語を構造的に理解できるようになり、家庭教師で基礎の底支えをしてもらったのもあり、フランス語が安定し始める一助となった。
しかし、expression écriteという作文の授業は大いに苦労。与えられたテーマについて作文を書くのだが、とにかく書けなかった。フランス語そのものの単語量や表現力の問題もあるが、それ以前にそもそもどういった内容のことをどんな風に書くものなのか、皆目わからなかった。与えられたトピックに関するまとまった文章の書き方も習っておらず(習ったのかもしれないが理解しておらず)、この宿題は常に家庭教師や父親とやり、考え方や文章の組み立て方を徐々に身につけていったように思う。

算数は日本の学習範囲の方が進んでいたため、私設補習校で教えてもらう算数が基本となった。ただし、割り算や分数は日本語とフランス語では考え方が違う。筆算の書き方も違う。私は日本語のやり方で覚えていたため、普段の授業ではフランス式に直す必要があった。黒板で皆の前で計算する時など、日本式で計算してしまい、先生に注意されたことを覚えている。私設補習校や通信教育で教わる内容と現地の学校で教わる内容の考え方が異なったものの、親たちは自分が習っていないフランスの教え方が理解できず、また私も説明できなかったので、結局日仏二つの考え方が私の中に共存し、行き来することになったが、それをうまく同じ概念として一致させることができず、理解という意味ではつまづいた。要は単純な計算問題はできても、文章問題になると途端に解けなくなる、ということ。このつまづきは以降もひきずった。

公民、歴史、科学は成績が悪く、20点満点中7〜9点あたりをさまよっている。いずれもおそらくフランス語力が年相応に追いつかないことによる内容の理解不足が原因。公民はフランス人権宣言など、歴史はフランス建国の歴史などをやった気がするが、内容はほとんど覚えていない。さほどフランス語力の必要のない地理などは良い点数を取っている。漫画世界史でほぼ対応できたことを覚えている。体育と美術は引き続き微妙。

学年が終わる頃には悔しさでポロポロ泣くことはあっても、泣き喚くことはなくなり、成績もお世辞にも良いとはいえないが、進級できるレベルには達した。先生から「この一年間大変よく頑張りました」と評価されている。ただし「引き続きフランス語には課題が大いので、夏休みは休まずフランス語を勉強するように」と続く。そのとおりだろうが厳しい言いぶりである。

小5

日本語 
引き続き通信教育講座と私設補習校。
後から振り返ると、おそらくこの時期がもっとも言語が混乱していた時期だろうと思われる。フランス語が急に伸びてきて、日記には「フランス語で夢を見た!」などと書いてある。しかしこのフランス語の伸びに比べて日本語のインプットが増えていないせいもあり、日記では「今日はtrès tristeなことがあった」といった調子で日本語とフランス語の混在が強くなっている。言語の混在に加え、小学5年生にしては日本語の表現力は低め。ただし、周りに同年代の日本人がほぼいないこともあり、個人的には自分が何が得意で何が苦手なのかなど、客観的に考えたことも、他人との差を感じたこともなく、とにかくのびのびとしている。日本から送ってもらった魔女の宅急便を見て、同年代のキキに大いに刺激を受けているようなのどかさだった。

親がこの時期私の日本語力についてどう思っていたかはわからないが、私設補習校と通信教育を除き、フランス語での現地生活の充実の方を優先させたのだろうと思う。私の頭の中で日本語の重要度が下がっていることもあって、私設補習校で私が果たしてどれだけ勉強していたのか、プリントはできていたのか、通信教育をちゃんと提出していたのか、親の尽力はさておき日記にはほとんど出てこないし、正直なところ、申し訳ないくらいに全く覚えていない。

フランス語 
授業の科目は小4の続きであり、コツコツと頑張っている。どうやら私は覚えは悪いが、コツコツ勉強できるタイプだったようだ。日記を見ても、めんどくさいとブツブツ言いながらも、自分に必要であることを理解し、宿題をちゃんとこなそうとする姿勢が見える。成績表は中程度に向上し、この1年の伸びを褒められている。
家庭教師も引き続き継続していた。

学校生活としてはようやく本当の意味で友達ができてきて、放課後に遊んだりということができるようになってきた。ただし、同時に人間関係の色々なごたごたに直面。というよりも、ごたごたできるほど友達と会話が深められるような言語レベルになった、と言うべきだろうか。それまで言われっぱなしでモヤモヤしたり、悔しい思いをしていたのが、自分の意見を伝えたり、価値観の違いによるケンカなどができるようになってきた頃である。だが自分の中にあまり核となる価値観も確立していなかったので、多様な価値観や意見が存在することを理解し、自分の中に取り込んでいっている様子。自分が考えていることはどうやら他の人とは違うようで、それは文化とか国籍といったものが関係するようだ、ということを揺らぎながら理解しつつあることが日記から伺える。遅ればせながら、言葉が追いついてきたのとで、内面的な成長もした1年なのだろう。

英語
このあたりでフランス語が一段落しつつあるのを見計らってか、家庭学習を始めた様子。当時の日記には、母親から英語を習うことにしたが、it is がit'sになるなんて不思議だというようなことが書いてあり、フランス語との違いに驚いている。ただし、記憶には全く残っていない。特に周りに英語話者はいなかったので、おそらく座学だけして、実践はほぼしていないと思われる。

小6

小6の夏に次の国へ移住した。現地の学校は9月の新学年から転入。
新しい国では、公立校は私の学年ではすでに第3言語をそれなりのレベルに習得している必要があったため、それが必要のない私立校に入ることになった。
だがフランス語のみの私立校がなく、英語とフランス語のバイリンガルコースを擁する私立校に面接を経て転入。この学校は英語オンリーのコースとバイリンガルコースの2コース制で、私が入ったバイリンガルコースはフランス語で開講される授業と、英語コースと合同で英語で開講される授業の組み合わせで成り立っていた。
ちなみに、これまた後から聞かされたのだが、バイリンガルコースはミックス家庭や帰国子女等すでに英語のバックグラウンドがある子供を想定したコースで、かつレベルのそれなりに高い学校だったため、実は私は成績が足りず、当初このコースには入学許可が降りなかったそうだ。英語コースであれば幅広く受け容れていると言われたが、今から英語に全て切り替えるのは無謀だと親が判断し、かといって他に行く宛もなかったため、在校生を探し出し推薦状を書いてもらったり、色々と交渉の末、なんとか特別扱いで入れてもらったらしい。学校探しから入学が決まるまでの親の心労は察して余りある。
ちなみに弟の学年はまだ第3言語が始まっていなかったため、弟は公立校に転入した。

日本語 
夏までは引き続き通信教育。同時期にもう一家族も引っ越すことになったため、私設補習校は解散になった。
次の滞在地には補習校があったため、補習校へ通い出した。週一回、国語の授業だったように記憶している。同年代の子がたくさんいる環境に久しぶりに入ったことで、言いたい事がスムーズに表現でき、全部説明せずとも相手が色々なことをわかってくれ、ストレスなく会話が通じるという母語での日本人との会話に、ものすごく新鮮な驚きと、喜びを感じている様子が日記からありありと伝わってくる。
補習校の図書室にある本を片っ端から読み始め、日本語が飛躍的に伸びた時期でもある。転入した現地校が合わなかったこともあり(詳細後述)、補習校と日本が精神的な逃げ場となった私は、とにかく日本につながるものと日本語に飢えていて、最初は青い鳥文庫、宗田理の僕らシリーズや各書店の小・中学生向け文庫から入ったが、すぐに読み尽くし、マンガも含め乱読多読状態に。一週間に5冊の貸し出し上限では収まらず、弟の枠も使って毎週10冊の上限いっぱいまで借りて読んでいた。三国志や水滸伝など中国歴史ものを読み漁り、馴染んできたフランス語圏と違う世界を発見したりもした。吉川英治や司馬遼太郎、三浦綾子などを読み、親に驚かれた。とにかくいつでもどこでもひたすら本を読んでおり、夜ふかしも頻繁にしていたため、親から早く寝るよう何度となく怒られたことを覚えている。暴力的なシーンの多い本や大人向けの本などは禁止され、本を借りてきた際は親にタイトルを見せる約束になっていたが、実際にはこっそりと色々読んでいた。

読書という日本語の良質なシャワーを大量に浴びた結果、スポンジが水を吸収するように日本語の語彙や文章構成、多様なトピックをぐんぐんと吸収し、日記というアウトプットも飛躍的に向上している。まず文字そのもののサイズや字幅が整って書けるようになり、見違えるように綺麗になっている。文章構成力がついただけでなく、大人びた言い回しや漢字も増え、フランス語との混在もぱったり見られなくなった。書いている内容も、読んでいる多種多様な本や現地校のフランス語の授業で書かされる作文が影響してか、はたまた人種差別による理不尽な経験を通じて色々なことを考えたせいか、身の回りのことから社会に関すること、時事問題、哲学的な話題まで関心が大きく広がっている。ただし、日本語自体は意味を間違って使っているものも見られる。本で読んだ表現や単語を見よう見まねで使ってみたのだろう。実際本についてもどこまで深く理解して読んでいたかは不明。

日本語の確立という観点ではこの時期・学年が私にとって大きな転機で、母語である日本語での思考体系や表現に改めて触れ、現地校で受けた人種差別もあいまって「私は日本人」という気持ちを強くし、以降どんどん心理的に日本を向くことになる。

フランス語 
フランス語での授業はフランス語、算数、理科。学校は毎日3時すぎまであり、午前中のみで終わっていた前の国に比べ、急に長くなった。

フランス語そのものは引き続き書く力等課題はあるものの、安定してきて、語学の勉強ではなく教科の勉強ができるようになっていたが、国が変わったことによりフランス語そのものに変化があり、数の数え方や同じ単語でも表現のニュアンスの違いなど、新しい国のスタンダードに慣れるのに数ヶ月要したようだ。そのため、あまり授業でも積極的に発言しておらず、成績表にはもっと授業に貢献するよう記載がある。

授業としては本を読んで要約+書評(A4で2ページ)を書くという授業が記憶に残っている。毎週1冊フランス語の本を選ぶのだが、本の選定(自由に選んで良かった)と速読に苦労している様子が伺える。本は読めるようになっても読むスピードと書く能力はまだまだネイティブには追いつかず、小説は面白いけど書評が書きにくいとか、宇宙について簡単に書いてある本の方がわかりやすく「7才用だけど、ちょうど良かった」など色々試行錯誤している。
ただし、転入したこの年、実際にはフランス語の先生からは特別扱いをしてもらっていたようだ。日記にはノンネイティブであることを理由に他の生徒よりも採点基準を緩くされていることが授業内で先生から暴露され、他の生徒からずるいと非難されたという記述がある。成績が低くていいからフェアにして欲しかった、と書いてある。

算数は新しい学校のカリキュラムの方が前の学校よりも進んでいたが、日本の方がそれよりもさらに進んでいたため、ついていくことができ、唯一の得意科目になった。相変わらず算数に関してはフランス語と日本語の思考の間を行ったり来たりで、科目として好きとは正直言えなかったが、この頃人種差別によるいじめが始まったこともあり、唯一他のクラスメイトに勝てる科目として、バカにされないよう授業に積極的に参加して自分の存在意義を出していた。

理科も新しい国の方が数段カリキュラムが進んでいた。このため知識ギャップが大いにあり、これは母親が日本の教科書を用いて解説をしてくれたり、家でもできる簡単な実験については、一緒に再現実験をやってくれた。しかし結局母は日本語でしかわからないため、授業でわからなかったことを聞いてもわからず、フランス語で理解する作業は自分で行わなければならなかった。度重なる親子ゲンカを経て早々に日本語でのキャッチアップは諦め、フランス語の理科の本を沢山買ってもらい、自習した。両親がその本の山を見て、しみじみと私のことを尊敬する、と言っていたのを記憶している。この頃から学校の勉強に関して親に何かを聞いたり、助けてもらうことはなくなり、自分自身で完結するようになった。

英語 
授業としては英語、社会、美術、体育が英語で開講された。
英語に関してはESLクラスを受講することになった。そのほかの科目は英語コースの子たちとの合同授業だったのだが、英語がわからないなりに混ざっていたようだ。言語としての英語そのものは他の子に比べて出来ないものの、自分をいじめてこない英語コースの子たちと混ざれる授業は嫌いではなかったようで、成績表では英語は"Rapid progress in all area"、社会の授業などでは"Very good participation despite language problem"と書かれている。英語の勉強はもっぱらESLの授業と教材によっていた。

スペイン語 
公立校と異なり既習者である必要はなかったが、この学年から第3ヶ国語が必修で始まった。率直に言って、新たな言語に対するモチベーションは極めて低く、選択肢にあったスペイン語、ドイツ語とラテン語の中からスペイン語を選んだのは、ひとえにスペイン語がフランス語と似ていて一番負担が少なそうと思ったからだ。この選択に関しては自分で決めた。つまりスペイン語がフランス語に近いといった語族に関する認識はちゃんと持っていたようである。
モチベーションが低いだけあって、成績表では「もっと積極的に授業に参加するように」と毎期書かれ、成績も芳しくないが、個人的にはこれはもう仕方がないと割り切っていたし、親もさすがに何も言わなかったように記憶している。
(なおドイツ語に苦労している今となっては、当時ドイツ語を選べば良かった…と思わないでもない。)

本題である勉強の話からは逸れるが、この時期の重要な出来事として、学校(とクラスメイト)が全く合わず、人種差別が始まった。根本的な要因として、そもそもクラスにおける黄色人種に対する差別的な感情が大きかったように思われる。英語コースにはアジア人も多くおり、各国の駐在員の子供など比較的多文化多国籍な環境だったのだが、私の所属したバイリンガルコースは主に地元有名企業の社長の子供など現地や他フランス語圏のお金持ちエリート子女が多かったこともあり、スノビッシュなクローズドサークルで、アジア人=メイドの子、くらいの認識であった。そもそもアジア人もほとんどいなかった。もっとも、本当のところ何が原因だったのかはわからない。単に人と違うからいじめられただけで、アジア人だからというのは口実に過ぎず、最終的には誰でも良かったのかもしれない。
何がきっかけで私に対するいじめが始まり、またエスカレートしたのかもわからないが、この学年の後半は酷かった。フランス語の間違いや発音のアクセントを馬鹿にした口調で真似されてからかわれるといったことはもちろん、御約束のツリ目仕草、「チンちゃんチョン」、母が毎日作ってくれていた日本式のお弁当をからかわれ(鼻をつまんで吐く仕草をされたり、人間の食べるものではないと言われたり)ランチから仲間外れにされる、日本の服を馬鹿にされる(当時我が家はデニムなどを除き服は日本のものが多かった。何故だか理由はわからないが…)、私が来ると「クサイ」と言って離れていってしまう、理科の実験や体育の準備体操などペアで行うものに対して、誰もペアを組んでくれない、など、とにかく差別として想像されるありとあらゆることを体験した。トイレの個室を上から覗き込まれ(防犯上隙間がある)、「アジア人もトイレするんだ!同じ色だ!」などと囃したてられたこともあるし、黄色(人種)は帰れと石を投げられたこともある。
既にフランス語もある程度は出来たので、当初は大いに言い返し、猛烈に戦っていたし、大声ではいえないが暴力で返したこともあるし、あまりに悔しいので負けないためにフランス語を頑張ったし、あるいは自分が悪いところもあるのではと自分なりに色々考えて行動を変えてみたりしたが、何をしても結局からかいやいじめをするクラスメイトがやめることはないし、また積極的に差別するわけではないクラスメイトも特に助けてはくれないことがわかると、もう疲れてしまって、最後の方は休み時間は一人で日本語の本を読んでは現実逃避していた。学校が終わるとすぐ家に帰り、引きこもって本を読んで、宿題と予習をして、また本を読むという日々だった。この頃は本当に辛かった。学校だけですべてのエネルギーを使い果たし、それ以外のことには全体的に無気力で、何か他のことをやりたいと思うエネルギーもなかった。友人は補習校の日本人が中心で、現地校に友人といえる存在もいなかったことは、普通の会話としてのフランス語力の深化をきっと妨げただろうと思う。帰宅早々現地校の友人と遊びに行き、暗くなるまで帰ってこない弟が羨ましかった。(実際には弟には弟の葛藤があるのだが。)

ただ、辛くとも学校には行き続け、親に言われずとも現地校の分も真面目に宿題も予習もし、スペイン語以外は勉強を諦めることはなかった。モチベーションは、負けず嫌いの精神と、ここは私の世界ではない、いつかはこんな世界から抜け出せるからそのときに備えるんだ、という異世界転生系のファンタジーに大きく影響された雌伏の精神だ。このときの私は自分は本当は違う場所(日本)で活躍することが決まっていて、だからここでは居場所がないのは仕方がないんだと思い込むことで自分を支え、そういう本を繰り返し読んでは主人公に自分を重ねていた。これまで勉強しかする時間がなかったせいで勉強以外に何も自信を持てるものがなかったので(体育も音楽も苦手だったし、趣味といえるものを読書以外に見つけてこなかった)、ここで負けてはいけない、というプライドだけで勉強していた。

ただ、人種差別を受けた時点で全くフランス語が全く出来ず立ち向かうことができなければ、そもそも戦うことも諦めていたかもしれない。また、日本に対してここまで思い入れがなければ、深刻なアイデンティティ・クライシスに陥っていたかもしれない。そのあたりはほんの偶然の賜物で、今となっては紙一重だったと思う。

中1

日本語 
補習校中心の勉強に、引き続き読書。中学に上がったことで授業が週2回に増え、宿題の量も増えた。
現地校のフランス語が難しくなってきていたこと、人種差別にほとほと疲れて学校に居場所もなかったこともあって、とにかくハンディなく理解できる日本語を勉強することが楽しく、また補習校のクラスメイトには永住組の子も多く自分の方が日本語ができたため、自尊心も大いに刺激され、宿題は全く苦にならず、授業では積極的に発言し、補習校のスピーチコンテストなど各種行事も暑苦しいほどに全身全霊を傾けて参加・準備している。

本の虫だったので国語は大得意のつもりであったが、この頃国語の先生から親を通じ、「tommieさんは筆者の意見と自分の意見を混同することがある」と指摘されたことが強烈にショックだったのを記憶している。要は現代文において、著者の気持ちや論理などを、書いていないことまで「きっとこういうことに違いない」と解釈していた。思うに、これはフランス語や英語でわからない単語があっても、パラグラフや全体で読み大意を掴んだり類推するようにしてきた弊害かもしれない。何にせよこの指摘を境に日本語の文章の読み方は大きく変わり、「書いてあることを読む」「書いていないことは創作して穴埋めしない」ように気にかけ、多読乱読から、精読の方に意識して力を入れるようになった。補習校の先生のススメで国語辞典を活用するようになってきたのもこの頃。国語辞典はもっと早くに活用をすべきであった。

ちなみに補習校にはミックスの子たちが多くいたが、中学に上がると共に漢字なども急激に増え難易度も上がり、帰国を前提とした家庭と永住を前提とした家庭では差がどんどん開いていき、この時期補習校を辞めるミックスの子が増えたように記憶している。
辞めていった子の大半は家でもフランス語の家庭(他の言語の家庭もあったかもしれないが覚えていない)で、補習校でも中学レベルになると日本語の語彙が追いつかないことが多く、フランス語が混じったり、中には質問もフランス語で聞く子もいた。英語は出来てもフランス語が出来ない短期滞在組や、私のようにフランス語はできても補習校を唯一日本語を話せる場として捉えていた子どもは当然のように日本語で話したし、必然的に日本語の目標レベルが異なったため、教室にはフランス語組と日本語組でグループが出来、小競り合いもあった。
補習校の先生はクラス運営に相当苦労したであろうと思う。

フランス語 
いわゆる中等教育のレベルにあがったことで、授業分野が細分化され、授業レベルも一気にあがった。

フランス語、数学、物理、生物、実験(化学)がフランス語での授業。
フランス語は宿題の量が増え、求められるレベルも一気に高くなり、苦戦しつつも奮闘している様子が日記から伝わってくる。毎日なぜ夜11時まで勉強しなくてはいけないのか、それでも宿題と予習が終わらない、他にやりたいことがいっぱいあるのに、と嘆いている。
特に苦戦したのが討論(débat)と作文(éxposé)。この頃にはフランス語の表現力もだいぶ上達してはいたが、それ以上に求められるレベルが上がる方が早く、またテーマも環境問題や難民問題等、社会問題へと高度化したことから、ネイティブに全く口で叶わず、自尊心は下がり、気後れし発言がなかなか出来なかった。前半の成績表は芳しくなく、「もっと積極的に」「文法を含めフランス語をもう少し頑張るべき」と書かれている。
他方で、中盤から成績が向上。まだまだおとなしすぎるが、表現力も向上し、授業に付いてこれるようになった、と書かれている。フランス語のインプットを増やした記憶や形跡はないので、おそらく授業の過程で「読む→éxposéを書く→先生が添削→再提出」を短いスパンで繰り返すことにより、フランス語での論理的な思考能力と文章構成能力の型ができてきて、雄弁ではなくともポイントを突いて論破する、という自分なりの勝ちパターンが身に付いたことで救われたのだろう。また、日本語で精読するようになったことも、いい影響を与えたことは間違いない。

物理と生物、実験(化学)の三科目に細分化された理科はネイティブにとっても初めて学ぶ内容だったことから、その頃にはフランス語力が追いついていたのもあって授業自体はさほど落ちこぼれはしなかったし、成績もどちらかというと良い方をとっている。
ただし、逆に全てフランス語で学んでいるため、日本に帰国後日本語での内容がわからず多いに苦労した。もっとも、これは帰国後に直面する話で、当時はあまり気にしていなかった。

英語 
英語、地理、歴史、美術、演劇、体育が英語での授業。
英語は実力がもっとも伸びた時期。年度後半の英語はpre-intermediateレベルに参加を開始。単純にクラスレベルが上がるという目に見える形でステップアップできたこと、英語コースに所属している新しいクラスメイトに混ざることができ楽しくもあったのだろう、通知表では教師から全体的に実力が伸びており、特に発音と書く力が伸びた、と褒められている。
なお英語の発音に関して、知らず知らずフランス語訛りであったようで、実は社会人になってから、イギリス留学帰りの上司に「口の中でもごもご話さないように」と発音矯正の特訓を受けたことがある。第一外国語が与える影響は大きい。

歴史は近代史が範囲であった。先生の話をずっと聞いたり、年号暗記型というよりは、テーマに沿って映画を見たり調べ物をして発表し、それに対してディスカッションした内容に先生がコメントする、という授業形態だったため、英語力不足は大きなハンデになった。第二次世界大戦に関する授業は忘れられない。アメリカ人の先生であったため、パールハーバーや南京大虐殺において日本が行ったこと、カミカゼ、原爆投下は戦争を終わらせるために必要だった、といった内容で構成されていた。それに対してディスカッションをしたが、私が日本語で読んで知っている内容との乖離や落差にクラクラし、反論を試みようと思ったが英語力も知識も全く足りず、悔しい思いをしたことを覚えている。
もっとも、この授業くらいしか記憶に残っていないのは、授業が予習も復習もしづらい系式だったために、実際のところあまり理解できていなかったのだろう。

スペイン語
引き続き、やる気なし。先生からは授業にもっとアクティブに参加する必要がある、と指摘を受けている。モチベーションを高めるためか、語学の楽しさを思い出して欲しかったのか、家族旅行でスペインへ行った。が、せっかくの旅行なのに通訳がわりにされ、現地でレストランの注文などをしなければならかったのがむしろ大きな心理的負担であった。旅行は楽しかったものの、ちょっと伝わるからといって語学学習のモチベーションが上がるような素直な思考回路は既に持ち合わせておらず。授業は一種のサボータジュとも言える状態。

なお、めげずに学校に通っていたこともあり、人種差別そのものは落ち着いてきた。むしろクラスで中心的なグループを形成していた大人びた子達は、新たな関心事として葉っぱやタバコ、アルコールに手を出してみたり、ドラッグについてあれこれ話してみたり(予防啓発を目的とした授業もあった)、クラス内で誰それがくっついたとかどこまで進んだというような噂話に忙しくしていた。そういった話題には加わらないタイプのクラスメートや、中心的なグループの手前何もできなかったものの特に私に対する悪意のなかった子たちを中心にポツポツと話す相手も出来、どん底状態からは抜け出した。ただし、人種差別を受けたトラウマは消えなかった。この頃一番仲良くなったのは中国人の友人である。

この時期、美術の先生(音楽もこの授業でやっていた)に何も楽器ができないことを指摘されて悔しく、親に頼んでピアノを始めてみたりもしたが、練習の負担が重く、またなかなか上手に弾けないことにも苛立って、すぐに辞めてしまった。ただ、短い期間でも何か別のことを習えたことが、本当に嬉しかったことを憶えている。

中2

日本語 
引き続き補習校での学習と、読書がベース。現実に父の帰任の目途が立ってきて、まるで蜘蛛の糸のように感じた。この頃補習校の同級生や1学年上の先輩の中には日本で高校受験をする事を想定している本帰国準備組も増えてきたため、一時帰国した同級生や先輩から回ってくる受験対策本などを読み、受験用の問題集を解き、帰国子女入試でよく用いられる作文を書いてみたり、とにかく日本語の勉強に手当たり次第取組み、大きなエネルギーを注いでいた。
母親は私の日本に対する過剰な期待に心配もしていたようだが、本人は意外と冷静に状況を見ていたようだ。当時の日記を少し長いが引用する。

「私が始めて海外で感じた「早く帰りたい」という思いは、私を苦しめることになる。「こちらの子とは、気が合わない」その想いが次第にたまり始め、今までの2年間にわたってふくらみ続けてきた。そして今、あと1ヶ月で日本に帰れるという思いに、またそのふくらみは加速したようだ。1日千秋の想いで帰国の日を待ちわびる私に、母はくぎをさすが。日本はそんなにいいの?母の問いに、私は明確には答えられない。日本ではもっとつらい学校生活が待っているかもしれないのだ。が、私はやはり帰りたい。」

フランス語
大学進学が当然の学校だったので、中学だがバカロレアを見据えた内容がちらほらと出てくるようになり、授業は更に高度化。インプット重視というよりは、論理的な思考力や、口頭及び記述双方での構成力、表現力など運用を重視する授業がますます多くなってきた。引き続きもっと積極的に、という指摘はされているが、問題なくついていっており、成績も中の上、ものによっては上位のものもある、というところである。

ちなみにこの学年に最も苦労したのが、意外にも数学であった。二次関数どころか三次関数が出てきて、もうまったくついていけなくなってしまった。数学的な考え方というものが結局できていなかったのだと思うが、フランス語はわかるが数式が何を意味するのかわからない、という状態で、こればっかりは苦心した。そもそも割り算の考え方が違うせいか、結局日本語にしてもわからなかった。このつまづきは帰国後も続くことになる。

英語 
引き続きpre-intermediateクラス。もっと自信を持って話すように、"Be confident!" "Speak up!"とずっと指摘されおり、最後まで自尊心を持つことと、話すことが課題だったようである。

スペイン語
引き続きアクティブなコミットを求められているが、サボタージュ。成績は中。

最終的に日本へ帰るにあたり書いてもらった推薦状や成績証明書を見る限り、苦心した数学も含めて、一応このまま現地で進学しても全く問題ないレベルはキープしていたようだ(帰国に当たってもらった書類なので、下駄を履かせてくれているとは思うが)。
ただし、成績が追いついても、いや追いついたからこそ、「頑張ってようやくネイティブと同レベル」という現実は重く付いて回った。予習や宿題を欠かさずしてようやくネイティブと対等なのであって、自分が力を抜いたら、あるいはネイティブのトップ層が力を入れて勉強したら、自分は最上位にはいけない。バカロレアに向けて準備を始めた優秀なクラスメイトが一気に成績を伸ばすのを見ながら、コツコツと勉強をしてきただけに、この埋めがたい差に向き合わざるを得なかった。どうして私は人の何倍も苦労してるのに、という思いが募った。

こうしてほぼ消化試合のような気持ちで本帰国の日を指折り数え、中3に上がる春、約5年間にわたる第二期海外生活を終了した。

***

その後

だいぶ長くなってしまいましたが、以上が子供の頃の私の奮闘記になります。

結果的に言語面でいうと、私自身は日本語とフランス語はそれぞれの現地水準に照らしても年相応と思われるレベル、英語は日本人の普通の子供としてはちょっと良い、というレベルで海外生活を終えました。ただ英語は日本の子とほとんど変わらなかったので、帰国後クラスメイトから悪気無く「帰国子女なのに英語できないの」と言われ、大変悔しい思いをし、その後英語を頑張る大きなモチベーションになりました。
各教科については、実はこのあと日本に帰った後には、カリキュラムの違いで習っていないことや、現地で習ったことでも日本語での知識の欠落から、つぎはぎのパッチワーク状態で困ることが不規則におこり、しばらくキャッチアップに終われることになりました。最終的に日本のカリキュラムに従った子達と完全に同等にすることは恐らくできておらず、高校の受験勉強を通じ、大きな凹を応急処置していった、というところです。また、数学は後に至っても禍根を残し、結局私は数学嫌いになりました。

他方で、ここまで読んでいただいた方は、私の結果は決して計画して得られたものではなく、様々な偶然に支えられた結果であったこともお気付きになったのではないかと思います。当時の親や私の努力は涙ぐましいものですが、例えば小5の言語混在状態のまま、読書というインプットがない環境が続いたら、親や私がどんなに頑張ってもおそらく言葉の成長は止まり、ダブルリミテッドになっていたでしょう。また、もし人種差別がなく学校が楽しければ、ここまで日本語を勉強することもなく、もっとフランス語が優勢になっていたであろうと思います。渦中にいた時にはわかりませんでしたが、後から考えると岐路に立っていた、ということがいくつかありました。

またこの文章は日本への帰国をもって一旦終わりなのですが、忘れてはいけない重要な点は、実は人生は帰国して終わりではなく、その後もずっと続いていく、ということかと思います(そもそもミックス家庭などは終わりもありませんね…。)

私自身のその後の話をすると、親はせっかくバイリンガルになった私にそのままフランス語を続けて欲しいと願っていましたが、私自身は帰国時にはすっかり心が折れていて、フランス語やフランス語圏に関わり続ける気持ちになれず、帰国後は日仏バイリンガルという土俵から自ら降りました。特にフランス語に関する自尊心のなさは顕著で、私は自分の実力はA2レベルだと信じて疑っていませんでした(実際には仏検準1級に合格)。そしてその結果、私のフランス語バイリンガル状況は中学レベルで止まっており、語学のプロとして仕事で使えるものではありません。ただ、自分では土俵から降りたつもりでも、客観的にはフランス語ができるため、また私自身過去を完全には捨てられず、このあとの人生も亡霊のように私をずっと追いかけてきて、使わざるを得なくなり必死にキャッチアップをしたりもしました。過去を本当の意味で受容できるようになったのは、フランス語に関係のないキャリアが落ち着いてきた30代始めあたりかもしれません。

ことほどさように、バイリンガル子育て・海外子育てというと、親は理想を描いたり、周囲からの期待があったり、子供自身もその呪縛に囚われがちですが、現実はそんなスマートなものではなく、親や子供の性格も含め様々な現実や自分ではどうにもならない与条件に引きずられて、色々な形、色々なケースがあるのだと思います。

私のように一旦はバイリンガルになってもその環境を喜べないかもしれないし、ダブルリミテッドになっても充実した人生を送ることもできる。あるいは現地に溶け込み、そちらに軸足を移すお子さんもいるでしょう。自分にとっての本当の意味は、本人にしか、それもちょっと後からしかわかりませんし、本人以外が判断するものでもないのでしょう。

色々と書いてはきたのですが、本当は、もっと自由に、もっと好きに可能性を生きてもいいんじゃないのかな、と、元帰国子女としては思うのです。

私のケースが、誰かの参考になれば幸いです。

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