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楽園

 高校の定期考査に、赤点というものがある。一定の点数に満たない場合、その科目への理解度が足りないから単位はやれんよ、というものだ。

 基準点を30点以下などとする絶対評価もあるが、平均点の半分以下といった相対評価を赤点とする高校も多い。理解の度合いを確かめる定期考査に相対評価はどうなのという疑問もあるが、その是非はさておき。

 相対評価な赤点の場合、それを逆手にとって生徒全員で赤点を回避する、実にシンプルな方法がある。事前に生徒全員でしめしあわせ、みんなで仲良く0点をとればいい。そうすれば誰もが平均点で、かつ全員1位となる。

 この方法のパワフルさはなんといっても、技術的に極めて簡単な点だ。誰だって0点をとるのは難しくない。試験が始まったら名前を書いて、あとはなにも書かないまま白紙で提出。なんの準備も仕掛けもアイテムもいらない。果てしなくラクチンな採点に、教員たちも確かな満足。

 ……と言いたいけれど、万が一にも実現したなら、もちろん学校側は黙っていないだろう。首謀者のあぶり出しやらなにやら、保護者を巻き込んでの大騒ぎとなるに違いない。

 ただ実際のところ、この作戦はもっと手前で失敗する。誰かひとりが裏切るだけで、すべて台無しになるからだ。

 裏切りに後ろめたさはまるでない。理解度をチェックするテストへ前向きに取り組むのは本来の姿だし、学校側も味方になってくれよう。そもそもこの作戦で恩恵を受けるのは出来よろしくない生徒たちで、優秀な面々になんのメリットもないどころか、おかしなリスクしかない。

 腹を決め白紙答案を提出したところで、誰かがひとりでも抜けがければアウト。裏切り者はトップに立ち、0点は一転して赤点となってしまう。仮にほとんどの同級生を信じたとしても、学年全員がお互いを信じ切るのは無理だろう。ここまで考えればもう、全員0点という約束などファンタジーというほかない。

 そうして自然界の生き物も同じように、隙あらば相手を出し抜こうと必死に生きている。のんびりして見える植物たちも、もちろん例外ではない。そのひとつが、光を求める過酷な競争である。

 ここで大事なのが、地面すれすれと1メートル高いところ、なんなら数十メートル高い場所でさえ、太陽から受けとる光エネルギーに違いはないということだ。ところが多くの植物たちは、まるで太陽に近づこうとするかのように、幹や茎を必死に伸ばす。

 これは植物たちが高いところを好んでいるのでなく、背丈が高ければ高いほど周囲の競争相手に光を遮られにくくなるためだ。植物だって高く生長するには、かなりのエネルギーや時間がかかる。低いままでいいならそれに越したことはなく、実際ライバルの少ない環境の植物は、わざわざ高くなろうとしていない。

 もし植物たちが示し合わせ、低いまま仲良く生きようぜと一致団結できたなら、受け取る光エネルギーは同じまま、もっとラクチンに生きられるはずだ。

 だが全員0点と同じく、熾烈な自然界でそんな約束など意味をなさない。裏切り者はすぐに現れ、高みで大きな葉を悠々と展開する。そうして影におちた周囲の植物たちは、深刻なエネルギー不足に陥るだろう。

 ところが約一万年ほど前、とうとう全員0点を実現した植物があらわれた。米や小麦をつくる、イネ科の仲間である。

 田んぼや小麦畑に目を向ければ、彼女ら彼らはみな同じように低い背丈で育ち、最低限の生長で日光を効率よく受け取っている。仲間は遺伝的に均一なため、出し抜いて高くなろうとするものはいない。生長の早いライバルが侵入することもあるが、外敵たちは忠実な生き物によって速やかに排除される。

 これらは高い計算力と強い行動力をもつ生物――ヒトのサポートによるもので、野生ではまったくありえない。のどかな田園風景は、ヒトから見れば自然界の生存競争から逃れた人工的な姿だろう。だがもう少し縮尺を広げてみれば、少しばかりの種子と引き換えに、イネ科の植物が築きあげた景色と見ることもできる。

 シビアな生存競争の末、ヒトという動物を飼い慣らし、楽園をつくりあげた植物。それがイネ科の正体なのだ。そんな事実をわかっていても、やっぱりごはんやパスタはおいしいのである。

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