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映画『蜘蛛巣城』 写実と様式。野心を描いた野心作(ネタバレ感想文 )

監督:黒澤明/1957年 日

「午前十時の映画祭」で4Kデジタルリマスター版を鑑賞。
恥ずかしながら初鑑賞。

この映画は、シェイクスピア作品を日本の戦国時代に置き換えたというよりも、シェイクスピア劇を能に翻案したという印象です。
三船と山田五十鈴の顔はまるで能面でしたもん。

冒頭、「昔々、蜘蛛巣城というお城がありました」ということを映像だけで見せるんですね。
今時の作品なら台詞や字幕で処理しているところです。
映画は画面えづらで語る。今の作品は安易に台詞に頼りすぎ。

この冒頭は後々、「つわものどもが夢の跡」的なエンディングに繋がりますが、もう一つ重要なポイントがあります。
この段階で「この話は三人称の視点ですよ」「物語の語り手は主人公ではありませんよ」と言っているのです。
つまり観客は、主人公と一緒にハラハラドキドキするのではなく、お話を客観視するポジションに位置づけられるわけです。
それはまるで、芝居や能の「舞台」を観客席から見るように。
そのせいかどうか、カメラは引きのを多用します。
そしてその引きの画は、後々「森が動く」に生かされるのです。

ただ、この映画で圧巻の画面は、動く森よりもマジで射ってる矢。

CGの無い時代。出川哲朗よりも過酷な撮影。
こんな現場だったらしいですよ。

弓を射ってるのは成城大学の弓道部の学生だったとか、酔った三船が「殺す気か!」と黒澤の自宅前で騒いだとか、いろんなエピソードがありますけどね。ちなみに東宝の撮影所も黒澤の自宅も三船の自宅も成城大学も成城にあるんですよ。なので、『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)冒頭のウェディングケーキは成城風月堂の特注だとか、『天国と地獄』(63年)にいたっては「(当時の)特急列車の乗客は富裕層」という理由から黒澤は特急列車の乗客のエキストラを成城の住民から集めたとか。

まあ、そんなエピソードは映画の解釈に直接関係ないんですけどね。
ただ面白いのは、黒澤は「画面に本物が映る」と考えている点です。
特急列車の乗客エキストラなんか典型例ですよ。
その一方で、この映画では「能」という「様式」を取り入れている。
「写実と様式」という相反するものをこの映画に放り込もうとしたように思うのです。

そう考えると、この映画は野心的です。
黒澤明、当時47歳。この頃の黒澤は(後の黒澤もそうかもしれないけど)、野心的に攻めていた。

この『蜘蛛巣城』(57年)はシェイクスピア、
『羅生門』(50年)は芥川龍之介、
『白痴』(51年)はドストエフスキー、
『どん底』(57年)ゴーリキーと様々な原作の翻案に取り組んでいる。
その間だって、ヒューマニズム(『生きる』(52年))、超娯楽作(『七人の侍』(54年))、社会派(『生きものの記録』(55年))といろんなジャンルに挑戦している。

いや、黒澤の野心は、「映画の可能性」を押し広げることだったのかもしれません。

余談
「今時の作品なら台詞や字幕で処理している」と前述しましたが、実はこの映画も場面転換や時間経過を家来たちの「会話」で繋いでいます。
これ、シェイクスピア劇の特徴というか、私は勝手にシェイクスピアの発明だと思っているんですが、ある種の「様式」なんですよ。
状況説明しつつ、セット交換や主要登場人物の衣装替えの時間を確保するための手法だと私は勝手に思ってるんですがね。

(2022.11.26 イオンシネマ多摩センターにて鑑賞 ★★★★☆)

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