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インドのひとたちとわたくし。(88)-ものを運ぶしごと

 オフィスがあるのはビルの「セカンド・フロア」だ。英国と一緒で、日本で言う1階が「グラウンド・フロア」なので実質的には3階になる。そのうえの4階にあたる「サード・フロア」に検査機器を並べたラボ(試験室)がある。

 ここに機械を運び入れる作業が圧巻であった。

 振動検査の大型機械を入れるのに、貨物用リフトがこのビルにはない。通常のエレベーターには入らない大きさである。マノージがクレーンを調達するとは聞いていた。どうするのかと思ったら、サード・フロアには、我々のラボと外壁の間に、未内装のオフィス用空間があって、その先に外に面した大きなガラス窓がはまっている。その大きな窓を取り外して外壁に大きな穴を開け、クレーンで吊り上げた機械をそこから建物内に入れるのだという。さらに、隣の空間とこちらのラボを仕切っている内壁もいったん壊してぶち抜きにし、目的の場所までひとが動かしていくらしい。内壁は、レイアウト変更しやすい可動式パネルなので、これは取り外しが簡単だ。だけど外に通じる壁をいきなりぶち抜くとは大胆だなあ。

 そもそもこんな重たい機械を上の階に入れて床はだいじょうぶなのか。今さらながら不安になる。マノージとオムプラカシュによれば、建築家と管理会社に相談して、梁の通っている安全な場所をマークしたからだいじょうぶだそうだ。最初は駐車場のあるグラウンド・フロアに場所を作ろうと考えていたが、床の耐荷重を確認したところいけると判断したのだ。みんながいるときに天井が落ちてこないことを祈る。

 搬入当日、中に入れたあとの移動をどうしているのか気になって見に行った。そうしたら、木材を下にひいてコロのように使い、あとは7人がかりの人力で機械を押しまくっている。みなさん安全靴でもなんでもない、裸足にサンダル履きでこれをやってくれている。まるでピラミッド建設の現場を見ているようだ。いや実際に見たことはないのだけれど。

 隣を見に行くと、確かに窓のあったところにぽっかりと巨大な穴が開いていて真夏の青空がのぞいている。取り外した2メートル四方はある大型の窓ガラスは無造作に壁に立てかけてある。あーあ、こんなにしちゃって、修復できるのかしらん。雨でも降ったらたいへんだ。
 しかしそれから一カ月ちょっと経つ間に、この空間に新しい借り手がついていて、その会社のひとたちが実際に入居する前に、外壁と窓は修復され、内装工事まできれいに仕上げられたのを見ると、まさかあそこに大穴が開いていたとは今や、誰も思うまい。

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 先日も追加の大型検査機械が届いた。

 ビルの階段の下のほうで何人もの男性が大声を出しているのが、オフィスの入り口まで聞こえてくる。なにごとかと思って階段の下をのぞき込む。たまたま通りかかったアトゥールが、機械が届いたと教えてくれた。今、下の階の中段のところに業務用冷蔵庫くらいある大きさの機械と複数のひとが塊になっている。これまた人力で階段をサード・フロアまで運ぶつもりだ。何人がかりなのか、アトゥールと一緒に、いち、に、さん、と数えたら、9人のひとがエイヤエイヤと声をかけて持ち上げてくれていた。誰かが足を踏み外しでもしたら、と見るだに不安になるのでオフィスに引っ込んだ。

 ノイダのこのあたりは新興開発地で、うちのビルの裏と向かいでも、巨大な深い穴を掘っては大規模なオフィスビル建設が進められている。最初の掘削だけパワーショベルが来ているが、毎日、見ているとそのあとはほとんど人力だ。掘り出した土を運び上げたり、土嚢を敷き詰めたりするのもひとの手でやっている。誰もヘルメットすらかぶっていない。以前、日本から設計事務所を経営するひとが視察にやってきたが、地震大国日本とは工法がまったく異なるのでえらく驚いていた。

 建設用地の隅にレンガを積んだだけのバラックが長屋に連なっていて、そこに家族単位で工事作業者が住みこんでいる。ときどき、長屋が空になったと思うと、翌週にはあらたな別の家族がやってきて住んでいる。
 男性だけでなく、サリー姿の小柄な女性たちも、頭に布を巻いた平たい皿を載せ、その上にレンガをひとり10個は積み上げて運んでいく。あれはかなりの熟練を要すると思う。周りには、彼らの小さい子どもたちや犬たちがいつもわらわらと走り回っている。
 長屋にはドアもなく、煮炊きは外でやっている。当然、トイレもない。男性はそこいらで放尿しているようだが、女性にとって野外トイレは危険が伴う。誰かと連れ立って行かないと特に夜間は性犯罪被害の可能性も高い。だからトイレに行く回数を減らすため、できるだけ日ごろから水分を取らないようにしているという。

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 こういう工事現場は、地方の農村から次々とひとがやってくるのだが、ちゃんとした契約もないまま働いてしまう。安全管理もまともにされていないから、事故で亡くなるひとも多い。本当は労働者組合があるのだが、その存在すら知らずに働くひとのほうが多いのだと思う。きちんとした教育を受けていないから、受けられるはずの保障についても知らないし、役所へ相談に行くという発想もない。一日の労働対価が200から300ルピー(1ルピー=約1.6円)程度。女性は男性より少ないはずなので、夫婦二人で目いっぱい従事してもひと月1万ルピーあるかどうかだろう。それでもバラックのような住まいが与えられるというだけで大きなインセンティブになる。

 元気よく遊んでいる子どもらも、一定年齢になれば稼ぎ手として重宝されるものの、学校に行く機会はほとんどないに違いない。

 今年のノーベル経済学賞を受賞したインド出身のバナジット・バネルジー氏は、開発経済学を応用し、インドをはじめ各国で『貧困を緩和するための実験的なアプローチ』に取り組んでいて、国民議会が提案して実証実験中の最低所得保証制度にも賛意を表明している。インドではすでに500万人の子どもたちが支援を受けたそうだ。

 オフィスの外の工事現場で犬と戯れているあの子たちのところにも支援はいずれ届くだろうか。


建設労働者の福利厚生についてのNPOの記事( IndiaSpend, 20 April, 2019)

見えない労働力についての記事 ( BBC News, 7 Jan, 2019 )

ノーベル経済学賞 ( IndiaToday, 15 Oct, 2019 )

( Photos : Sector 142, Noida, 2020 )


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