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「さみしい」ってつぶやくよりも、はるかにさみしくなれる場所

終わりなき推敲作業の真っ最中です。
それと並行して来年の創作活動を考えているんですが、今まで書いた話とか、作った本を俯瞰してみると色々発見があるなぁと。

私は「これってどんな本?」に上手に答えられない人間なので、その練習もかねてちょっと整理してみようと思います。

※こちら完売となりました。ありがとうございました!
 記録として記事は残しています。


◆作品概要

『プレイグラウンド』2023年5月発行 
うっすらとつながる四つのお話からなる、公園を舞台にした短編集。

【ざっくり紹介】
どんなに力を込めても、どんなに高く上がっても、どこにも行けない。
受験した大学にすべて落ちた3月。
卒業式の帰りに、ひとりでブランコに乗って揺れていた。
力いっぱいこいでも、一歩も進んでいない。進めない。
(どんなに力を込めても、どこにも行けない遊びの三月)

かんぜんに、つりあっている。
それがわかりすぎるから、わたしはシーソーがすきで、きらいだ。
双子の姉妹・アミとミア。
鏡を見るように思っていたけれど、きっとわたしはアミに一方的に読まれているだけなんだ。(等価)

あの頃、すべり台の下の地面は、地獄だった。
そういうことになっていた。
私は恋愛というものがよくわからない。一生いっしょに生きていけると思って結婚をしたけれど、彼は浮気をしている。
私は、階段を踏み外して動かなくなった彼をおいて、公園にいる。
(ここから落ちたら地獄行き)

『誰か』。それは透明な影みたいな存在だ。
大学生の私と彼は、公園で他愛のない話をする。ベンチに座ることすらためらう彼は、存在しているのに何にも触れていない。
触れ合わない私たちは、あまりにも不確かだ。
(トーク・バイ・ザ・ベンチ)

ブランコの話は試し読みできます。


◆これってどんな本?

公園にいるひとたちは様々。
高校生がいて、子どもが遊んでいて、大人も散歩に来ていたり。
夕方になるとあっという間に誰もいなくなって、遊具も街灯も何もかもがただの影になってしまったみたいになる。

お互い風景にしか見えないけれど、そこにいる人たちそれぞれが人間で、なんらかの人生を持っている。

不思議と忘れがちだけど。でも、なんで忘れてしまうんだろう。

これがエンタメ小説だったら、きっともっと色んな経歴の人(それこそ非日常的な)がそれとなく集う話になったのかもしれない。
だけど私は、日常をていねいにすくいとるのが単純に好きなので、そういう短編集になっています。
それでもじゅうぶん、ぞっとすることなんてたくさんありますので、ね。

◆私は、私たちはたぶん、風景で物事を見ている

私の中で、「さみしい場所」の代表格は人がいるところです。
雑踏だとか、ひとりで歩く帰り道の住宅の明かりだとか。
人がたくさんいればいるほど、自分がどうしようもなくひとりなんだってことが浮き彫りになるから。

つい最近まで、仕事でいわゆる「さみしい場所」=何もない場所に行くことが多かったんですけど、何もない場所にさみしさってそこまで感じない。

ただ、何もなくなってしまった場所はさみしい。
そこに人がいた気配があるから。

通り過ぎるものは引きとめられない。
引きとめたとしてもそれは一時のことで、やっぱり通り過ぎていく。

風景は流れるものだから、公園や雑踏の人たちに「人」を感じないのもそういうことなのかもしれない。
風景だと思っていた、通り過ぎるものだって思っていたものが「人」だって思った瞬間、私はひとりになってしまって。
うわぁ、私ひとりぼっちなんじゃん、って思うのかも。


◆おわりに


ここまで書いて、これほんとに作品紹介になってるのか?と思うところなんですが、まぁおおらかに見守っていただければ。
私は「人のいるところってさみしい」って言えて満足です。(えー)

こちら完売いたしました。
手に取っていただいた方、気にしていただいた方、試し読みいただいた方、みなさまありがとうございました!

ちなみに『プレイグラウンド』は現在残部少数(増刷予定なし)です。

入手ご希望の場合は
■12/2・3@
ブックハンターセンダイに委託(イベント後、通販あり)
BOOTH通販 ※350円にて頒布
■1/14@文学フリマ京都、サークル「ペントパン」 
の、いずれかにて。
年明けに新刊を出す予定なので、それまでお取り置きにして~って方はご相談くださいな。


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