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データだけじゃ、何にもならない

先日、昨今のデータ信奉の社会に対しての疑問を書き連ねた。データを重視するあまり、生身の「人間」が最適解としてしか扱われず、ビジネスから「人間」の姿がなくなっているように思う。

前回の投稿では、データによって我々は一体何を知りうるのかについての課題を残していたので、今回はそのことについて考えようと思う。が、そもそもデータとは何かについて考えないことには始まらない。



データとは

データによって我々は一体何を知りうるのか?を考える前に、そもそもデータとは何なのかについて考える必要があるでしょう。データとは、過去の何かしらの結果の"断片"である。これが私の考えるデータの定義である。(ちなみにこれは、人間社会におけるデータという範囲に限って今回は論じる)

こう言ってしまうと、何を当然ということを思われるかもしれない。しかし、データ分析・ビッグデータという言葉がバズワードのように蔓延する現代においては、データとはそもそも何か自分なりの定義を与えることは、それだけで創造的な作業だと私は考える。

DX然り、データドリブン経営然り、急に現れ人口に膾炙した言葉は、言葉だけが一人歩きをし始め、"DX"とはどういうことか説明してくださいと尋ねたところで、恐らく期待できるような返答は来ないだろう。そもそも周りが使い始めたからDXという言葉を使っているに過ぎない。

少し脱線してしまったが、改めてデータについて基本的なことから考えたい。エクセルに自社スーパーの顧客情報が格納されているとしよう。そこには、直近の購買日・来店頻度・過去1年間の購買金額・クーポンの配信履歴などの情報がある。当たり前だが、これは全部過去の情報である。しかも、その情報はある意味、「人間」の意志が介在した結果でもある。

今日は肉じゃがにしたいから、ジャガイモと牛肉と人参を買おうとか、クーポンがあるから今日はこっちのスーパーで買おうとか、この人に自分のスーパーに来てほしいから販促担当がクーポンをこの人には付与しようと考えたとか、そういう何かしらの「人間」の意志が介在している。

社会は線形なんかじゃない

"過去の「人間」の意志が介在した結果"、これがデータの現時点での定義。でもデータって、余すところなくこの世界を記述できているのか?否、この世界の断片的な情報しか我々は知りえない。データを用いれば、魔法のように企業課題は解決されると思われがちだが、本当にそうなら、今頃この世は何の課題も存在しないユートピア(あるいはディストピア)になっているでしょう。

これでデータの定義はたたき台は完成。

"過去の「人間」の意志が介在した結果のうち、我々の知りうる部分だけを記述したもの"

ところで、データを用いてよく期待されているのは、予測の分野だと思うが、これも用いるデータの性質から自ずとその限界が窺い知れる。この社会は非線形である。データは過去の結果の部分集合であり、データから予測できるのは、線形の未来である。つまり、非線形の現実社会とデータからの予測との間には、必然的に誤差が生じざるを得ない。

そんなこと言っちゃ、何にもならない

でもこれはデータを用いた分析は無意味であるということと紙一重である。我々は、データとはおさらばして、大人しくする以外にないのか?

いや、そうではない。データの可能性は、データの限界を知った後に初めて立ち現れてくる。そういう希望を持ちたい。カントが、理性の越権行為を見定め、理性の思考できる範囲を定めたように。我々も、データの限界について少なくとも認識できた。ではここから、データによって我々は一体何を知りうるのかを考察しよう。それはある意味、データによって我々は一体何を知りえないのか、そしてそれを乗り越える方法は存在するのか?を考えることでもある。


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