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カントを現代に読む理由

大学4年生から興味を読み始めた哲学も早4年が経ち、少しずつなんとなく分かるようになってきた(気がするだけだと思うが…)。

今まで幾人かの哲学者の著作を読んできたが、その中でも理由は分からないが惹かれ続けているのがカント。言わずと知れた巨匠。ただ、彼の生きた時代から200年以上が経過した今、カントを読む理由はなんだろうか。

まだカントの哲学を解釈できているとは思わないし、彼の概念体系について批評できるような能力は持ち合わせていないが、ヘルベルト・シュネーデルバッハ著『現代の古典カント』(以下古典カント)を読んで、現代にカントを読む理由を自分なりに納得できたので、書き連ねる。

データ信奉の社会

今私はデータサイエンスを中心に仕事を行っているが、データが無可謬であるかのように扱われ、社会でデータがもてはやされている気がしてならない。データを用いさえすれば、社会のあらゆる課題は解決される!かのごとく、社会はデータに過度な期待を抱きすぎている感がある。

そもそも、データをこねくり回せば、何か有益な結果が得られるのかと言えば、そうではない。そもそも何のために、その分析を行うかという目的が欠かせない。

仮にその目的が明確に設定されたとして、その目標を正確に表すような指標が手に入るかと言えば、それも違う。多くは、目標に近似すると思われるKPIを設定して、分析を行うことになる。

さらに、目的に対して影響を与えるようなデータをすべて揃えることは、なおのこと難しい。

例えば、ある顧客に自社製品を購入してもらうことを目標に設定したとしよう。その目的に影響を与える要因は何が考えられるだろうか?直近の自社製品の購入日か、それとも前日に競合他社製品を購入しているかどうかも考えられるだろう。あるいは、その顧客が知人から前日に自社製品について勧められたかどうかも関係するだろう。

今挙げたものだけでも分かるように、ある顧客が自社製品を購入してくれるかどうかは、無限の影響因子の複雑な絡み合いによってもたらされている。原理的にその顧客が自社製品を買うかどうかを判断することは無理な話なのだ。(ただし、データサイエンスでは、目的変数と関係性のある(相関関係のある)影響因子を使って、1000人の中で10%の顧客が買ってくれるというような予測モデルを作ったりする。これは、施策を打てる顧客数が一定数確保できるからこそ、できることである。)あ

その顧客はどこにいきました….?

ただ、このデータサイエンスの作業をしていて何か思わないだろうか?私には、顧客という、生身の人間が数値化可能なデータへと情報が圧縮されて、顧客と言いつつも、まるで無機的なものを扱っているように感じるのである。顧客は自社製品を届けるための最適解としてしかその存在を扱われていないように感じるのである。

「人間」不在のビジネス

カントの有名な言葉がある。

君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として用いてはならない。

カント著 篠田英雄訳 『道徳形而上学原論』 p.103

有名なカントの定言命法である。昨今のデータサイエンスを用いたビジネスは、顧客を自社製品を購入させるための手段としてしか用いていないのではないか?その顧客"が"自社製品を使うことでどういう便益を得られて、顧客"にとって"どのような価値があるのかが忘れ去られてはいないだろうか?

あくまでも「人間」ありきのビジネスである。ビジネスが徹底的に数値化されればされるほど、そこに生身の「人間」が介在する余地が失われるようにも思われる。ダイハツの不正や過去のエンロン事件などは、まさに「人間」不在のビジネスの行く末だと思う。

「人間」を取り戻す

カントを現代に読む理由はこのようなある意味脱人間的なビジネスを修正するための、道徳的な原理の提供にあると思うが、それ以外にも、データ信仰に対する箴言としても有効だと思う。『古典カント』では、カントによると哲学には、4つの問いがあると記述されている。

①私は何を知りうるのか。②私は何を行うべきか。③私は何を希望することを許されるのか。④人間とは何か。

データによって我々は一体何を知りうるのか?ここについて次は考えを巡らせてみたい。


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