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意識はイリュージョン-錯覚する脳

久しぶりの本紹介です。

今回は心脳問題を取り扱った前野隆司著『錯覚する脳』を紹介します。


皆さんは心と脳の関係についてどんな立場に賛成しているでしょうか?

心は脳という物体の物理現象の結果に過ぎないとか、心は物体に還元できないとか。

様々な意見があると思います。私自身は、なんとなくどうしても心が脳内のシナプス結合とか電気発火とかのみの結果生じるものだとはとても思えません。

著者の前野さんも本書の冒頭でハッキリとこう述べています。

本書では意識がイリュージョンであると考えるならば脳で起こっていることはどのようにとらえられるか、について述べていくが、いくら述べても、「意識がイリュージョンであること」の証明はできない。実を言うと、私の側も、厳密には、「ある点で直観に頼るやり方であるのは否定できない」と言わざるを得ない。

従って読者の皆様もまずは、意識・心等はイリュージョンに過ぎないと思うか、あるいはそれらは物理現象に簡単に還元できないと思うか、あるいはそれ以外の考えのどれに賛同するのか、まずは直観的に自分の立場をはっきりして読むと、本書を数倍楽しんで頂けると思います。

難しい議論もちょくちょく出てきますが、本書の最後は「意識はイリュージョンだ」という認識を使って、人生をポジティブに生きる術も紹介されています。

本書の主張をまず

意識はイリュージョン

本書の主張は、

”意識はイリュージョンに過ぎない”

です。

上に掲載のグラフィックスデザインを読めば、本記事の内容を把握できます(文字が小さくて読めない可能性もあるかもしれませんが...)。

私たちは意識を確かにありありと感じていると思っています。りんごのあの甘さ、失恋したときのあの悲しみ等。文章ではなかなか表現できないあの豊かな感覚。これを「現象としての意識」あるいは「意識のクオリア」と本書では定義しています。

「現象」という言葉もその定義が曖昧なので、ここで注釈を加えておきましょう。ここでの「現象」は自然科学の観察対象としての実際に観測される事象としての現象ではありません。ここでは意識に現われるものとしての「現象」を意味します。

この「現象」はカントの現象とほぼ同義でしょう。カントの定義する現象とは、人間の感覚によって捉えられる以前のものとしての物自体(したがって、もの自体の色も形も分かりません)に対する、感覚を通して得られた、例えば「これはりんご(このりんごは食べると甘い、触るとツルツルしている、皮は赤い)だ」という認識の状態です。

このような「現象としての意識」・「意識のクオリア」等、所詮イリュージョンに過ぎないと強く主張するのが本書です。この主張を、五感はイリュージョンに過ぎない、主観体験もイリュージョンに過ぎない、と説明することで支えようと試みています。本記事では五感がイリュージョンに過ぎないという著者の議論を少し紹介できればと思います。

哲学的ゾンビ

ここで哲学的ゾンビという思考実験の登場です。

ゾンビと聞くと、あのグロテスクなゾンビを思い浮かべる方も多いかもしれません。しかし哲学的ゾンビは、”見た目は人間と全く同じ”なのです。

ただし本書の哲学的ゾンビは、普通の哲学的ゾンビとは少し違う。より人間に近い哲学的ゾンビです。その哲学的ゾンビの思考実験を導入したのが、チャーマーズという哲学者です。

チャーマーズの導入した哲学的ゾンビとは、物理的な成分や構成、見た目が全く人間と同じで、しかも痛みとかりんごの甘さという感覚も感じていると言い放つ存在のことを指します。ここまでだと、人間と哲学的ゾンビは全く同じに思えてきます。しかし、この哲学的ゾンビは意識のクオリアを感じると言いながら実際には、そんなクオリアを感じていないのです。このゾンビを想像できるかどうかが、意識のクオリアは存在するという考えと意識のクオリアなんてものはイリュージョンだという考えの分水嶺となります。

皆さんはいかがでしょうか。このゾンビを想像することが出来ますか?

先ほど私自身は、意識は存在する立場を取ると述べましたが、このチャーマーズ流の哲学的ゾンビを想像出来ません。もし、そのような哲学的ゾンビが存在可能なら、それはもはや私たち人間自身もゾンビである可能性を排除出来なくなる気がするからです。哲学的ゾンビに本当は意識のクオリアなんて感じてないでしょ、と問い詰めても、「いや、ありありとした感覚を感じている」と頑なに主張するです。これは私たち人間も同様ではないでしょうか?

この点で私の直観と論理的な理解は矛盾しています。これは困りましたね...。この矛盾を解消してくれるのは、もしかすると現代ドイツの若き哲学者、マルクス・ガブリエルの「新実存主義」ではないかと考えています。この『新実存主義』という本もまた紹介したいなと思います。

話が逸れました。著者の前野さんも、チャーマーズ流の哲学的ゾンビを想像できないと述べています。では、どうやって意識のクオリアがイリュージョンに過ぎないことを示しましょうか?

聴覚に関する驚きの発見


そこで前野さんが扱うのが、五感です。五感と意識は密接に関係していますよね。その五感を突き崩すことで、意識のクオリアの存在という城を落城させようとします。

その中でも私が思わず唸らされたのが、聴覚に関する議論です。

例えば、あなたが恋人の話を聞いているとします。その時私たちは何の疑いもなく、その声が彼/彼女から聞こえているというクオリアを得ます。しかし改めて考えると、空気の振動たるその声は耳元の諸器官を通して初めて私たちに認識されるわけで、その声は耳元で検出されているはずなのに、聴覚のクオリアは話相手の口元にあるように聞いています

むむっ...。なるほど...。確かに...。

ぐうの音も出ないですね...笑。聴覚だけでなく他の感覚に関しても似たような例を用いて、意識のクオリアはイリュージョンに過ぎないと示そうとします。

それじゃ、この世の中何でもかんでもイリュージョン?


意識のクオリアがイリュージョンだとすれば、私たちの認識するこの世界は全てイリュージョンになってしまうのでしょうか??

前野さんは恐らくそうだ、と答えるでしょう。でもそうだからと言ってニヒリズムに傾倒しなくても良いよとするのが、前野さんの本当に伝えたいことではないでしょうか。

前野さんは、この世は所詮イリュージョンに過ぎないのだからこそ、もっと人生を楽観的に捉えて生きてもいいんじゃないのと背中を押してくれます。

根源的な価値や幸せなんてものはそもそも存在しないのです。なぜならそれらもイリュージョンに過ぎないからです。だとすると、今の世の中にお金に執着して、お金のため・名誉のために働くことにも意味がなくなってきます。そうすれば、お金がないという状況にもさほど悲観的な態度にならずに済みそうです。

名誉やお金を求めても死んだら何も残りません。だったらささやかではありますが、イリュージョンによって、日々を周りの友人や家族、恋人とハッピーに送って自分なりに色とりどりにすることが結局一番幸せなんじゃないか、これが前野さんの一番伝えたいことだと思います。

最後に「新実存主義」

ここで『錯覚する脳』の紹介は終わりですが、本記事中盤で軽く触れたマルクス・ガブリエルの『新実存主義』を少し紹介して終えたいと思います。

ガブリエルはこの本の中で次のように述べています。

ふたつの種類の存在や実体があるとか、心的なものという種と非心的という種があるなどと主張する二元論を認めないのが私の立場だ。(p.156-157)

つまりガブリエルに言わせると、『錯覚する脳』は、心と脳(非心的な種)という二元論を前提に議論している時点で、そのような立場を認められないのです。

ガブリエルの議論は非常に用語などが難しく(かれがドイツ哲学の伝統に敬意を払っているからでしょう)、スルッと理解できる部分が多くはありません(その難しさ故に、絶対に読んでやる!と意気込んでしまうのですが...)。

しかし彼の基本スタンスを理解すれば、ちょっとは理解が楽になるような気がします。

彼の基本スタンスとは、「われわれがみずからを決定する動物であることは逃れようのない事実である」ということです。

犬は、自分はこういう犬になろうと思うことはありません(多分)。一方で人間は、過去の反省から、実行できるとは限りませんが、今日からこういう人間になろうと決意することは少なくとも出来ます。例えば、最近太ってきたから食事制限をしようとか。犬は腹が減っていたら目の前の食べ物を拒否することはありません。人間なら「今ダイエット中やから、要らん」と言えるわけです(そうは言っても今日だけとか言って食べてしまうこともありますが)。

このことを理解すれば彼の新実存主義の理解もスムーズになる気がします。またこの『新実存主義』は別記事で紹介したいと思います。

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